紫龍が、ギリシャ行きを提案したのは、氷河の帰る場所を保持するためでもあったが、同時に、今の聖域なら、どれほど激しい敵の攻撃を受けても、今以上に壊れようがないから──という、実に現実的な思惑があってのことだった。
幾多の闘いを経てきた聖域は、今では瓦礫の山と大して変わらない。
特にアテナ神殿に向かう途中の十二宮に沿った道すがらは、損壊の程度がひどかった。
そこは生活の場でもなかったので、再建も後回しにされている。
あるいはアテナは、もはや、そこを元の姿に戻す気はないのかもしれなかった。
闘いの記憶──それぞれの宮を守っていた聖闘士たちを忘れてしまわないために。

ともあれ、その聖域に、氷河はやってきた。
アテナの御座所で、彼は再び 攻撃を仕掛けてきた。
そこにアテナがいるからではなく、瞬を追って、彼はギリシャにまでやってきたのだろう。
実際 彼は、アテナのいるアテナ神殿には見向きもしなかった。
黄金聖闘士たちのいない聖域が、戦場になった。
城戸邸にいる時よりは逃れる場所も多く、建物を壊す気遣いをしなくていいせいもあって、攻撃をかわす側にいる瞬には有利に事が運ぶ。
そんなことに気を安んじることもできないほど、瞬の胸中は混乱しきっていたが。

「どうしてっ !? 何があったの、氷河! 僕が何かしたの!」
「ただ、おまえを殺したくなった」
「なぜっ !? 」
「俺が生きていくために」
「氷河……」
瞬には、氷河の言葉の意味がわからなかった。
氷河の真意が、瞬には読み取れなかった。
だが、瞬は、それが彼の望みなのなら叶えてやりたい──と思ったのである。
どんな望みでも、それが氷河の望みなのなら、瞬は叶えてやりたかった。
しかし、それが氷河の本当の願いだとは瞬には思うことができず、だから、その望みを叶えてやることも瞬にはできなかった。

いずれにしても、瞬は、氷河に対して、どうしても本気で反撃に転ずることができなかった。
氷河の拳から逃げ続けることしかできなかった。
氷河の拳を避け続けながら、瞬は、そうやって闘うことが、ふたりきりの夜に身体を交える高揚感に似たものを含んでいることに気付いたのである。
氷河の攻撃は執拗で、激しい愛撫に似た感覚で 瞬をいたぶった。
まさかこれが、氷河の考え出した新しい愛撫の方法なのだとは思い難かったが、そんな夜にいつも彼がそうなっていたように、瞬は気が遠くなりかけていた。
二人の争う小宇宙に気付いたらしい誰かが、その場に駆けつけてきて、瞬の名を呼ぶ。
氷河の愛撫に酔いかけていた瞬には、その者が誰なのか、その者の姿と輪郭すら、しばらく見極めることができずにいた。

二人の闘いに闖入してきた邪魔者に舌打ちをして、氷河の姿が消える。
瞬もまた、いったい彼はどうしてこの闘いの邪魔をするのかと一瞬 憤った。
その数秒後、ふっと“正気”が瞬の許に戻ってくる。
戦場だった場所には 既に氷河の姿はなく、瞬の身体の奥深くに、ちりちりと燃えくすぶる熾火おきびだけが取り残されていた。






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