氷河が目覚めた時、彼の傍らに瞬の姿はなかった。
氷河が衣類を身に着け、少しく悪い予感を覚えつつ足を運んだ瞬の居間に、瞬の兄はいたのだった。
彼は、昨夜氷河が幾度も口付け、抱きしめ、愛おしんだ瞬の肩を無造作に抱き、嗚咽を洩らし続けている弟をぶっきらぼうな口調でなだめていた。
「まったく、おまえはどうしてそう泣き虫なんだ。もう一時間にもなるぞ。そろそろ俺を坐らせてくれ」
「だって……だって、兄さん……兄さんが悪いんです……! 兄さんが僕を一人にするから……!」
「ああ、わかった。わかったから泣きやめ。もう一人にはしない。ずっと一緒にいてやる」
「兄さん……!」
その言葉にまた新しい涙をあふれさせ始めた弟を、瞬の兄がまた、ぶっきらぼうに、だが言葉とは裏腹に優しく抱き寄せる。
居間のドアの前で、氷河は呆然と、彼等兄弟の再会を見詰めていた。
気配を察知した瞬の兄が、ふと顔をあげる。

「誰だ、貴様は」
「氷河……!」
赤く泣きはらした目に氷河の姿を映し出した瞬は、昨夜互いに与え合った情熱のことなど忘れてしまったかのように弾んだ声で、氷河に彼の兄を紹介してくれた。
「氷河! 兄さんです! 僕の兄さんです!」
「──そうか」
「一輝兄さん、こちらは……」
「貴様が城戸の陰険息子が言っていた“妙な男”か」
「……!」

なぜ瞬の兄が突然この家に帰ってきたのかを、氷河は初めて理解した。
“城戸”に逆らう弟を苦しめるため──おそらくは、いざという時のために捜させていた瞬の兄に、城戸稔は知らせたのだろう。
『君の大事な弟さんに、妙な男が近付いていますよ』と。
胡散臭そうに氷河を見る一輝の目は、詐欺の容疑者に探りを入れている検事か何かのようだった。
「あの陰険野郎の言うことなど、話半分で聞いていたんだが……」
「兄さん……! 氷河はそんな妙な人なんかじゃありません! 氷河は、兄さんがいなくて一人きりだった僕を慰めて励ましてくれたんです! 僕の大事なたった一人の友だちです!」
(瞬……)

恋人に昇格できたと思った途端に“ただの友だち”に降格である。
まさかここで兄に『恋人です』と言うわけにはいかないのであろうが、瞬に あまりにきっぱりと『友だちです』と言い切られ、氷河は苦い気持ちにならないわけにはいかなかった。
兄が帰ってきてくれさえすれば、瞬は、“ただの友だち”すら必要としなくなるのではないかと考えることは、氷河にはひどく つらいことだった。
大人げなく、『友だちなどではない』と言い張るような真似もできず、氷河は眉根を寄せ 強張った笑みを無理に口許に浮かべた。

「よかったな、瞬……」
そう言ってやる以外、氷河に何ができただろう。
自分が城戸稔の言ったような男ではないということを、瞬とその兄に知らしめるために──。
兄の帰還を、普段の気負いも忘れ、子供のように手放しで喜んでいる瞬に、よもや、
『おまえが 今まで この広い屋敷に一人きりでいなければならなかったのも、あの男に身を任せることになったのも、すべては、今おまえの肩を抱いている男のせいではないか!』
──と、瞬の兄を責める言葉を叩きつけるわけにはいかない。
多分そんな言葉を口にしてしまったら、自分は瞬の友人でてることすらできなってしまうだろう。
それは、考えるまでもないことだった。

幾度その指や唇で確かめても、今にも儚い幻のように消えていってしまうのではないかという不安にかられて、操り返し抱きしめ、口付け、愛撫した瞬の髪、胸、肩──。
そのたびに、瞬は、その熱と やわらかさ、信じ難いほどの快楽を氷河に与え返すことで、これは幻ではないと告げ 氷河を受けとめてくれた。
ただ一度でも恋人としての夜を過ごしてしまったら、以前のように友だちの振りをすることは困難になる。
瞬のその優しい肢体、切なく情熱的な溜め息、過敏な反応を示すことをためらい、後には 奔放の極みに達した可愛いらしさ──を、再び この腕の中に抱き 愛しむことができないというのなら、むしろ離れていることよりも、“友人”でいることの方が つらいのかもしれないと思ってしまうほどに──。

(おまえの笑っている顔を見ていたいと思っていたが、それがこんなに つらいことだとは思わなかった……)
氷河は、諦めを含んだ仕草で、瞬から視線をそむけた。
「今日はもう俺は帰る。兄さんと積もる話とやらがあるんだろう」
「氷河……?」
氷河の態度が腑に落ちなかったらしい。
瞬は、心もち首をかしげるようにして氷河を見詰めていたが、やがて兄の側を離れ、ゆっくりと彼の側にやってきた。
「僕、何か……気に障るようなことをしてしまいました?」
瞬は不安そうに氷河を見あげ、僅かに昨夜の切なげな恋人の表情を垣間見せてくれた。
「いや……」
「でも、氷河……」
食いさがる瞬に、氷河は微かに微笑してみせた。
「兄弟水いらずの時を邪魔するほど野暮じゃない。ずっと待っていた兄さんなんだろう?」
「……」

それでも瞬から不安の色は消え去らなかった。
ためらうように低い声で、重ねて氷河に尋ねてくる。
「今度は……いつ来てくれます……?」
(来ていいのか? 本当に……?)
「そのうち連絡する」
「……」
瞬が、困惑したように顔を伏せる。
素っ気ない氷河の態度に傷付いたのか、あるいは、無理に氷河に対してこの家への訪問を強要することをためらったのかは氷河には わからなかったが、瞬が氷河の確約を求めなかったことだけは事実だった。
「連絡を……待っています」
兄に対しては輝くような笑顔を向けていた瞬の瞳が曇るのを、氷河は苦い面持ちで見おろした。


(なんだ、くそう! 今になってふらりと帰ってきて、この俺がたった一度抱きしめるのに半年もかかった瞬の肩を、当たり前のことのように抱いてみせやがって……!)
苛立たしい思いを胸に、自分のマンションに帰った氷河は、まるで空き缶を投げ捨てるような気分で、自らの身体をベッドに投げ出した。
車のデザインを生業なりわいとして手に入れたこのマンションは、一人でいるのには広すぎる。
あの屋敷から瞬を連れ出して、この部屋で二人で暮らすことを一時でも真剣に考えた自分が、ひどく愚かな男に思われた。
兄がいなかったからこそ、その孤独感から逃れようとして、瞬は自分を受け入れてくれたのだろう。
兄が彼の許に帰ってきた今、瞬が昨夜のように自分にすがってくれることがあろうとは、氷河にはどうしても思えなかった。

「大事な友だち、か……」
生来の無精癖のせいで片付けることなど思いもよらず、室内に取り散らかっている仕事の資料をぼんやりと眺め、氷河は手の平で自らの顔を覆った。
良い友人として瞬の前に立つことはもうできない──できそうになかった。






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