激しく渦巻いている気流の向こう側にある小高い丘の上に、何か白い物が見えたような気がした。 暮れかかる陽の光の中に かろうじて識別できていたそれは、だが、太陽が丘と丘の間に没すると、やがて見えなくなった。 (誰かいる……?) 氷河は目を凝らし、もう一度丘の上に視線を向けたのだが、彼は再びそれを見い出すことはできなかった。 それでもまだしばらくの間、氷河はその場に立ち、丘の上に視線を据えていた。 やがて、それを見極めることを諦め、歩き出す。 彼は、その国と他の国とを隔てている気流の勢いの最も激しい場所へと向かった。 “国”と言うにはあまりに小さすぎるその国は、特に自称する名もなかったが、隣接するどの国の王の支配も受けていなかった。 それ故、そこは確かに一つの独立した国だった。 誰も侵すことのできない国──他国の者たちは、その国を“ その国は、国境線の五分の四を激しい海流の渦巻く海に囲まれ、残りの五分の一は滅多に止むことのない気流によって他国から分断されている。 この国の王が気紛れに気流を止める時以外、他国の者がこの国に入ることは不可能――と言われていた。 ──母の胎内から外界に投げ出されて6500日目。 6500日前に彼が受けた神託が魔性の物のいたずらでなかったのなら、氷河は今日、この激しい気流の向こう側に行けるはずだった。 (気流が止む……!) 神託は、あながちでたらめなものでもなかったらしい。 丘と丘の間で激しく渦巻いていた気流が、徐々にその勢いを弱めていく。 逢魔が時が終わると同時に、気流は完全にその活動を停止した。 氷河の眼前に、薄い月の光に照らされて緑色に輝く なだらかな丘陵地帯が広がる。 いかにも戦さ知らずの国にふさわしく、満遍なく緑で染められた緩やかに連なる丘には、馬の蹄の跡一つ、武器を運ぶ車輪の窪み一つ無い。 集落は、もっと海に寄った方にあるのだろう。 氷河はそこに、人家を見い出すこともできなかった。 一つだけ──人の姿はあったが。 「この国に何かご用ですか?」 明るい月の光に照らされて輝く緑の丘を背にして立つ、白い服を身にまとった、少女とも少年ともつかない、緑の瞳の──。 「戦さに疲れて安らぎに来たの? 愛する人を失って絶望しているの? それとも、戦場から逃げ出してきたの?」 この国が戦さ知らずだということも、どれほど強大な軍隊をもってしても この国を侵すことはできないという伝説のような噂も、ここが妖精の住む国だというのなら納得できる. 氷河は、自分より二まわりほど小柄なその白い妖精を、無言で――半ばは驚きのために――見詰めた。 氷河が返答を与えなかったためなのだろう。 緑の瞳の妖精の口調は、厳しいものに変わった。 「戦いの相手を求めて来たの。戦場から迷い込んできただけなの。同胞を裏切って追われているの。この国を探りに来たの……!」 氷河が身に着けている獣の皮を 「──王城はどこだ」 低い声で、氷河は尋ねた。 その妖精は、険しい表情をした氷河を恐れている様子は見せなかった。 露の雫がこぼれるような声で、答えてくる。 「王城には、王に招かれた者しか入れません。場所を知っても無意味です」 「どこだ」 あくまで不愛想に尋ねる氷河を大きな瞳で見あげたそれの声音は、この国の事情を知らない外来者をからかうようなものに変わった。 「……小さな国ですから、二日も歩きまわれば必ず見付かりますよ」 「……」 氷河は、少し不愉快になった。 否、邪気無く見開かれたその妖精の怯えを映していない瞳が、彼は意外だったのだ。 「この国は、戦さ知らずののんびりした国と聞いていたが──おまえは、俺が恐くないのか」 「恐いです。あなたは、何日か振りでやっと餌を見付けた飢えた獣のようで、攻撃的で挑戦的な空気をまとっていて……でも……」 「でも……?」 その小妖精が、唇の端をあげて笑みを作り、氷河の顔を覗き込む。 「あなた、綺麗な目をしているから」 「……!」 氷河は思わず、肩で溜息をつくことになった。 妖精でないにしても、子供である。 戦さなど知らないのだろう伸びやかな手脚は、傷一つなく滑らかで白い。 本気になって腹を立てるのは大人げがない──と、氷河は自らを戒めた。 いつの間にか、氷河の背後では、再び気流が激しく渦巻き始めている。 氷河は、それ以上 この妖精から王城の所在を聞き出そうとするのをやめることにした。 「──この国の王は、“世界を破滅から救う力を持つ者”という神託を受けて生れてきたそうだが」 こまっしゃくれた妖精が、今度は素直に氷河の問いに答えてくる。 「この国の王は、代々その神託を受けるんです。神託を受けた者が王になります。傾向として、国の始祖の血を受けた者の中で、より非力な者が王に選ばれるみたい」 どうやらそれは、この国の中では秘密でも何でもないことらしい。 妖精の口調は流暢だった。 「でも、それがどうかしたんですか?」 気流によって、この国は再び外界から閉ざされてしまった。 もう一度この国の外に出ることができるのかどうかを怪しみながら、氷河はその事実を口にしたのである。 「俺は“世界を破滅させる力を得る者”という神託を受けて生れた。生れて6500日目の逢魔が時、この国を閉ざす気流の前に立てば、その力を手に入れることができるだろう──と、な」 「え……?」 氷河の言葉にその妖精が――あるいは人間なのかもしれないが──透明な緑色の瞳を見開く。 それから、その妖精は実にとんでもないことを氷河に尋ねてきた。 「あ……あなたは女性ですか?」 「……なに?」 氷河が、さすがに驚きではなく、不快の感情のために眉をひそめる。 「女に見えるのか、この俺が」 「あ……」 小妖精は小さな声を洩らして、軽く唇を噛んだ。 顔を伏せてしまった おとぎの国の住人とは全く対照的に、氷河の肌は日に焼けて浅黒く、幾つもの戦場を駆け抜けているうちに自然に発達した筋肉と隙の無さとを、彼は持っていた。 女に間違えられたことなど、かつて一度もない。 「い……いえ、少しも……。そんなふうには見えません……」 顔を伏せたまま、妖精が首を振る。 緑の色を含んだ柔らかな髪が、ふわりと揺れた。 「俺こそ訊きたい。おまえは人間か? 男か? 女か?」 「男です!」 即座に答えが返ってくる。 他人を──自分より背も高く、堂々とした体格の男を女呼ばわりしておきながら、 「ふ……ん。戦さのない国に生れ育つと、おまえのように綺麗な人間ができあがるわけだ」 「僕の兄は、外見も内面もとても男らしい人ですよ! 平和な生活が、僕を こんな柔弱に見える姿に育てたわけではありません!」 『人間』という単語を否定しないところをみると、やはり彼は妖精ではないらしい。 安堵と、ちょっとした落胆とを、氷河は味わっていた。 それから、どうやら彼の勘気に触れてしまったらしいことを悟って、氷河は抑揚のない声で、言葉を継ぎ足した。 「俺は平和というものに親しんだことがない。侮辱して言ったわけではない。ただ、俺の見知っているどんな人間とも雰囲気が違って……本当に綺麗だと思ったから、そう言っただけだ」 氷河は世辞でそう言ったわけではなかった。 世辞の言い方など彼は知らなかった。 それが、少年にもわかったらしい。 彼は面白そうに笑みをこぼして──半分吹き出しながら──氷河に向き直った。 「愉快な方ですね。いいです。王城にお連れしましよう。ただし、距離は結構ありますし、僕は乗り物に乗って来てはいませんから、あなたはご自分の脚で歩く――走ることになりますけど」 「構わん。走りまわるのは、戦場で慣れている」 自分のどこが『愉快』なのか、どうにも合点がいかなかったのだが、ともかく、氷河は少年の提案に頷いた。 屍の転がっている戦場を、敵の気配を探りながら駆け抜けることに比べたら、この平和な国の丘陵を案内人の後について行くことなど、造作もないことだと氷河は思った。 「じゃ、駆けっこしながら行きましょう。僕、逃げます!」 言うなり駆け出した少年の後を、氷河は一瞬遅れて追いかけることになった。 (速い……!) そして氷河は、彼に遅れずについていくことは、馬に乗った敵を追いつめることよりも難しいということを、すぐに思い知ることになったのである。 少年の軽快な足取りはまるで風に乗っているようで、そのスピードは、まさに風そのものだった。 とても尋常の人間のそれとは思えない。 彼の後を追っていかなければならないという義務感さえなかったら、氷河は、月の光に戯れているようなその少年の姿と軽快さに見とれてしまっていただろう。 緩やかな登り下りをそれぞれ四回繰り返し――つまり、なだらかな丘を四つ越え、五つ目の丘の頂にさしかかった時、少年はその足を止めた。 氷河が少し遅れて、同じ場所に立つ。 彼は、氷河がほとんど遅れをとらずに自分に付いてきたことに驚いたようだった。 自分の脇に立った氷河を、彼は横目で見あげ、それから長く息を吐いた。 丘の中腹から裾野にかけて、この国で初めて見る人家がまばらに点在していた。 その向こうに、海が見える。 海にせり出した崖の上に小さな城があった。 高い石造りの塔を持ち、その横に神殿を抱いている。 月と星の光を受けて宝石を散りばめたように輝く海と川、緩やかに蛇行する細い道、緑の原のあちこちに点在する家や小屋――おとぎ話のような、おもちゃ箱をひっくりかえしたような小さな国が、白く ほの明るい月の光の中に、静かに佇んでいた。 海の向こうと、丘を五つ越えた向こうの世界では、今もどこかの国と国が戦さを続けているというのに、この国では、この静けさこそが現実なのである。 それが、なにかひどく滑稽なことのような気がして、氷河は皮肉に口元を歪めた。 「速いんですね。僕――は、どんな獣より速く走れるのに……」 「おかげで追いつけなかった。あれが、王城か?」 「そうです」 「今夜はもう、開門してもらえないだろうな……」 たとえこのままこの丘の斜面で野宿することになっても、この国でなら、敵に寝首をかかれることはなさそうである。 氷河は今夜一晩を外で過ごすことを決め、少年に向き直った。 礼を告げようとした氷河を、少年の失笑が遮る。 「明日になったって、開門はしてもらえませんよ。お城には門がありませんから」 「なに……?」 「この国の者は、いつでも誰でも、あの中に入れるんです。行きましょう。夜になってから、お城以外の民家の家人を叩き起こして宿を頼むなんて良くないことです」 「……」 平和も、ここまでくると気が抜ける。 勝手の違う国――。 結局 氷河は、先に立って歩き出した少年の後に、ひたすら無言で従うことになったのだった。 |