少年の言うように、城には門がなかった。
門の代わりに花壇があった。
兵もいない。
兵の代わりに、庭のあちこちにある喬木の陰で──門や囲いが無いため、それが庭なのかそうでないのか、氷河には判断できなかったが──夜啼き鳥が鈴を振っているような鳴き声を響かせている。
廻廊を一棟横切ると、中庭があり──三方を廻廊に、もう一方を建物に囲まれているため、これはすぐに庭だとわかった――その庭の中央に、周囲が大人の腕で一抱えもありそうな灯りが置いてあって、それが中庭のみならず、庭を囲む廻廊をも明るく照らしていた。
灯りは火ではなく、何か光を発する鉱物を集めて作られたもののようだった。

「この建物は地階から四階までみんな空き部屋ですから、お好きな部屋を選んでください。二部屋ずつ続き部屋になっていて、間に浴室があります。水も各部屋に引いてあるんですけど、上の方の部屋は出が悪いみたい。灯りは、ドアの前にそれぞれ灯石が置いてありますから、それを部屋の中に……」
「瞬!」
白い煉瓦をガラスでコートし、それを積み重ねて造られている建物の入口に立って、『宿泊施設の正しい利用法』を氷河に教示してくれていた少年の声が、別の声に遮られる。
「いったいどこに行っていたんだ! この前もどこぞの馬鹿な国の軍を追い払ったばかりで、どこに残党が潜んでいるかわからないんだぞ!」
「潜んでいたって国の外のことですし、もしかしたら戦さを厭って、この国の近くに残った兵かもしれません。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、兄さん」
「──おまえは、外の国に住む者たちを知らん。それは何者だ」

瞬に兄と呼ばれた青年が、胡散臭そうな視線を氷河の上に投げてくる。
彼は、瞬とは対照的に、傲慢そうな漆黒の瞳の持ち主だった。
瞬より丈の長い、瞳と同じ色の服を身に着けている。
「あ、お客さまです」
「……外の国の者だな」
「ええ。神託を受けたんですって。“世界を破滅させる力を得る者”って」
瞬の言葉に、瞬の兄の視線は、より一層不躾なものに変わった。
眉間に皺を刻み、合点がいかぬらしい口調で弟に告げる。
「──薄汚れた男に見えるが」
「身仕舞いを整えれば、きっと綺麗な人です」
「それにしても男だ」

いったいその神託を受ける者が男であってはならないという事情でもあるのだろうか。
瞬の兄以上に不機嫌な顔になってしまった氷河を執り成すように、瞬が再び口を開く。
「そんな、男、男って連呼したら失礼ですよ、兄さん。この方にはちゃんと──」
が、どうやら瞬には、氷河の機嫌を取り結ぶだけの材料の持ち合わせがなかったらしい。
「お名前、伺っていましたか、僕?」
首をかしげて尋ねてくる瞬に、氷河はぶっきらぼうに名を名乗った。
「氷河だ」
その返答に頷いて、再び瞬が兄に向き直る。
「氷河というお名前があります!」
「……」

瞬の兄と氷河は、揃って黙り込んでしまった。
特に氷河は、この国、この城まで、道化を演じに来たわけではなかったのである。
「俺は、この国の王に会いに来たんだ。冗談を聞きに来たわけではない」
「人を訪問する格好ではないな。帰れ」
「人に会うのに格好を気にしていられるような国は、この世にこの国しかないだろう。この国の外では、敵を殺して受けた返り血が何にも増して豪奢な衣装だ」
「貴様もかなり豪華な衣装を身に着けたことがあるようだが、この国向きではない」
どうやら人殺しは、この国では招かれざる客らしい。
瞬の兄の目には、ありありと侮蔑の色が浮かんでいた。

「兄さん……!」
瞬がそんな兄の言葉を遮る。
遮って、瞬は、少し不自然な笑みを氷河に向けてきた。
「今夜はこの城でやすんでください。明日、王に会わせてあげます」
「瞬!」
兄に逆らうような真似をするのは、瞬自身 不本意だったのだろう。
彼は許しを乞うような眼で兄を見あげ、言い訳を言うような口調で兄に告げた。
「だって、今から国境に戻って気流を止めるのは……」
「……」

瞬の兄が殊更 不機嫌そうに口許を引き結ぶ。
が、どうやら彼は、非常に弟に甘い兄らしい。
「勝手にしろ。俺は知らん」
吐き捨てるように言って踵を返し、そのまま一度も後ろを振り返ることなく、彼は庭の奥にある建物の方に歩いていってしまった。
「ありがとうございます、兄さん……!」
瞬が兄の背に向かって礼を言う。
それから瞬は、先程の建物の一階の部屋のドアを開け、氷河にその中に入るよう、手で示した。

「ゆっくり休んでくださいね。あなたは──氷河……は、なんだかとっても疲れているみたい」
「……」
氷河の疲労は、身体的なものではなく、むしろ心情的なものだった。
勝手のわからない国で、自分の流儀を通すこともできず、自らを他人の意思に委ねることしかできないこの状況が、彼はどうにも不快だったのである。
多分この邪気のない透明な緑の瞳をした少年は、兄弟で この国の王に下僕か何かとして仕えているのだろう。
敵に命を奪われてしまわないために人の命を奪う──そんな行為がこの世に存在することなど夢にも思わない幸せな存在──自分とは異なる人種だと、氷河は思った。






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