夜の闇に沈みかけた王城の中庭に、また夜啼き鳥の声が心細げに響き始める。
その夜、氷河は、彼がこの国にやって来る時に持ってきたただ一つのものを、久方振りに手に取った。
それは、この国に来るまでは、氷河が他の何よりも信頼を置いていた長剣で、この国の中では無用の長物だったために、ずっと石の壁に立てかけられていたものだった。

明朝、この国にやって来た時と同じように、この剣だけを持って、あの気流渦巻く国境を越える。
それで、すべてが元に戻るはずだった。
人に殺されないために、人の命を奪う。
より良い条件を提供してきた王の軍に身を置き、力と策を与え、報償を得て、自らの命を維持する――。
すべてが元に戻り、それによって失われるものなどないはずだった。

(瞬には言わずにおいた方が良かったのかもしれないが……言わずにいたら、俺を国の外に出してくれなかっただろうし、な)
外からこの国にやって来て、外の国に帰りたいと言い出した人間は、おそらくこれまで一人もいなかったのだろう。
安全と平和が約束されているこの国を、好んで捨てる者はいるまい。
この国の外で弱者に待っているものは、死のみなのである。
“友人”に与えられるかもしれないその試練を、瞬は何よりも怖れているのだ。
(この国に来る前なら、他人の身の心配をする人間の存在など信じもしなかっただろうに……)
剣を元の場所に戻し、いらぬことを覚えてしまったものだと苦笑いをして、窓の外に視線を投げる。
その視線の先で――中庭の中央にある灯石が青白く発光し、その光の中に、瞬の姿がぼんやりと浮かび、揺れていた。

(瞬……?)
寂しげに打ち沈んだその面差しを見やり、氷河は苦い思いを抱くことになったのである。
自分はこの世界にただ一つだけ存在する平和の国の王に、“平和の価値”に対する疑念を抱かせてしまったのではないだろうか──?
それは“恋”ほどには重要なものではないのだ──と。

瞬の不安を打ち消してやるために、氷河は客室から中庭に出た。
夜目に氷河の姿を認めた瞬が、ぎこちない笑みを氷河に投げかけてくる。
「……氷河、教えてあげる。“世界を破滅させる力”のこと」
「それは……もう、いらないんだ、瞬」
自分らしくない――と氷河は思った。
声の響きが、冷淡というよりは穏やかで、自らの発した声の調子に、氷河は軽い驚きを覚えた。

「──いいから、来て」
瞬が氷河の手を取る。
力を込めて引かれたわけではなかったのだが、逆らい難い力を瞬のその白い手に感じた氷河は、瞬に促されるまま、中庭の王宮の更に奥にある神殿――王城の施設の中で最も大きい建物――へと向かったのだった。
神殿に続く石の階段の脇に、瞬の兄が立っていた。
「やはり……その男なのか、瞬」
瞬は兄に無言で頷き、そのまま氷河を伴って、神殿の中へと足を踏み入れた。

そこは、神の像も祭壇も何もない、ただのだだっ広く白い空間だった。
神殿の脇にある塔に続く階段と、地下へ通じているらしい階段とがある。
瞬は 地下への階段の方を手で指し示し、先に立つ瞬の後に、氷河は無言で従った。

人ひとりがやっと通り抜けられる程度の幅しかない通路の空気は、下に進むほどに冷めたく澄んでいく。
段を500も数えた頃、狭い階段通路は終わり、また広い空間が現れた。
自然の岩肌に囲まれ、その隙間から湧き水が湧き出している。
岩には中庭の灯石と同じ成分が含まれているらしく、その空間は、明け始めた朝の陽光に照らされているかのように明るかった。
その中央に、一塊りの闇がくうに浮かんでいるほかは。

「あれが、氷河の欲しかったものです」
瞬が、その闇を指し示す。
氷河は訳がわからずに、続く瞬の言葉を持った。
瞬が指し示したそれは、瞬の身の丈ほどの大きさの楕円形のガラス球だった。
中に、白い砂の粒が、それこそ無数に浮かんでいる。
それらの砂粒は、時折微かな光を発して消滅したり、また流れて消えたりを繰り返していた。

「──これが“世界を破滅させる力”?」
「正しくは、“世界”そのものです。あの球の中の一点に、僕たちが今いるこの世界が存在しています。球の周囲に、銀色の光の輪があるでしょう? 僕も僕の兄も他の誰も、あの結界より“世界”に近付くことはできません。でも、多分、氷河は──結界を越えることも、“世界”に触れることもできるでしょう」
「……」
瞬の説明の内容が良く飲み込めないまま、氷河は、瞬自身はそれ以上近付けないという結界を越え、球体の側に歩み寄っていった。

「氷河! “世界”に触れることだけはしないでください!」
結界の外から、瞬が鋭く声を投げてくる。
「氷河が触れた場所の側にある星にも、もしかしたら生き物がいるかもしれません。氷河が与えるほんの少しの熱や震動で、その星が壊れてしまうこともあるんです!」
「……?」
“星”だの“世界”だの何だのと、訳のわからない瞬の言葉を訝りつつ、自分の一挙手一投足に はらはらしているらしい瞬のために、氷河は早々に結界の外に戻った。

「やっぱり……結界を越えてしまいましたね……」
「瞬……?」
瞬の瞳はひどく切なげに潤んでいて、氷河は何故かその眼差しにうろたえることになった。
これまで見知っていた瞬とはどこか様子が違っていて、氷河は、瞬の瞳の中に不思犠な熱っぽさを見い出してしまったのである。
瞬が、さりげなく、そんな氷河から視線を逸らす。
瞬は、そして、瞬の言う“世界”の上に視線を据え、氷河に“力”の意味を伝えるべく、ゆっくりと口を開いた。

「昔、神は、宇宙を幾つかに分け、その中にある星の一つずつに“心”を持った生き物を置いたんです。生き物に心を持たせることの是非を確かめるために。この球体とは別の球体が、僕たちのいる世界とは別の場所に幾つかあって、でも、それらは全て破壊されてしまった。心を与えられたがために、その星の住人たちは、自分たちの住む世界を内含しているこの球体を破壊してしまったんです。悲しみや絶望や疑心に負け、破壊の力を持った者が、その手で、世界を、そして、自らと自らの愛した人を滅ぼしてしまった……。それと同じ力を、氷河、あなたは持っているんです」
(……?)

氷河は、その説明を聞いただけでは、瞬の言っていることの意味が良く理解できなかった。
宇宙観が、氷河と瞬とでは、根本的に違っていたのである。
ただ、
「俺が、この球体を破壊しさえしなければ、おまえは生きていられるんだな?」
──と、それだけは、氷河にもわかった。
そして、そのことだけが、氷河にとってはただ一つの重要事だったのである。

「氷河も、それ以外の人たちも、僕たちの生きているこの世界も──」
告げずにいれば、瞬は瞬の愛する世界を破滅させる力を、その力を駆使できる男に知らせずに済んだのである。
氷河は、瞬の誠意に応えるために、その誓いを口にした。
「俺は、もうこの神殿に入ることはないだろう」
瞬が、身体と心の緊張を解いたように、ほっと息を洩らす。
だが、氷河は、この心優しい王に安堵の時を与えなかった。

「何故、おまえは俺にこのことを教えるんだ。俺は、おまえが俺のものにならなければ、この球体を破壊してやるとでも言って、おまえを脅迫することもできる」
「脅迫には屈しません……! 僕は“世界を破滅から救う力”を持っています……!」
「――」
途端に険しい目付きになってしまった瞬に、氷河は唇の端を歪めることになったのである。

「──多分……おまえの力の方が大きいのだろう……」
“世界を破滅させる力”を手に入れてさえ、瞬を自分のものにすることはできない。
氷河は、瞬に背を向け、彼に先立って、先程の長い階段を神殿の出口に向かって登り始めた。
瞬が、その後から小さな足音を響かせてくる。
ただただ真っすぐに地上へと通じる細い通路に響く瞬の足音は、何かをためらい、また何かに急かされているように、速くなったり遅くなったりすることを繰り返し、最後の段を登り終えるまで、それは続いた。

「氷河……!」
神殿の広間に出ると、瞬は、そのまま神殿から出て行こうとする氷河を、大きな声で呼び止めた。
ゆっくりと振り返った氷河に、そして、瞬は告げてきたのである。
「氷河……。僕──は、本当は、氷河の意思を曲げる どんな力も持ってはいません……!」
いったい瞬は何を言っているのかと、氷河は眉根を寄せて、“世界を破滅させる力を得る者”を見あげている“世界を破滅から救う力を持つ者”を見おろした。

「僕の“世界を破滅から救う力”は、心だけのことで、僕は本当に何も――何の力も持っていないんです……!」
「何を言っているんだ。おまえが無力のはずがないだろう」
瞬がその気にならなければ、“世界を破滅させる力を得る者”は、その力の意味さえ知らずにいたのである。
瞬に“世界を破滅から救う力”がないはずはなかった。
だいいち、瞬はつい先程、“世界を破滅させる力を得る者”の脅迫には屈しないと、きっぱり言い切ってみせたばかりではないか。

「瞬……?」
小刻みに震えている瞬の肩に、氷河は手をのばした──のばしかけた。
瞬がすっとその場から後ずさり、氷河の手が宙を舞う。
その手を拳に握り直し、氷河はそれを下におろした。
そして、もう一度、瞬に背を向けて、神殿を出ていこうとした。

「氷河……!」
瞬がまた、氷河を呼びとめる。
氷河は今度は、立ち止まりも振り返りもしなかった。
神殿の、重い石の扉に手を掛ける。
氷河がそれを開けようとした時に、神殿の広間に、瞬の悲痛な声が響き渡った。
「“世界を破滅させる力”は、この国の王が──“世界を破滅から救う力を持つ者”という神託を受けてこの世界に生れ出た者が、心から愛し、愛され、心から求め、また求められた者に与えられる力なんです!」






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