──氷河は、外へと続く扉を開けなかった。 不自然なほど長い時間を置いてから、氷河はゆっくりとぎこちなく、後ろを振り返った。 氷河の視線に一瞬ためらってから、瞬が言葉を継ぐ。 「僕の父と母の代まで、色々な事態はあったのでしょうが、世界はその存在を失うことはありませんでした。これは人間が“心”を持つが故に生れてくる“愛”というものに対して 神が課した試みなんです!」 “世界を破滅させる力を得る者”の射るような視線に、瞬が小さく息を飲んだのが、氷河には見てとれた。 「ぼ……僕が、この力のことを氷河に告げたのは、氷河のその手に、何千何万という星々と、その星に住むすべての生き物の命がかかっているということを真剣に考えてほしかったからです。たとえ、どんなに つらく悲しいことが起こったとしても、その悲しみやつらさに負けて自暴自棄になったりせず、自分以外の人間にも思い遣りと寛大さをもって接し、理性と優しさと平和を望む心で、いついかなる時にでも、あの球の破壊への誘惑を退けてほしいからです。僕が望むからではなく、氷河自身に、人々の平和と幸福を願ってほしいからなんです!」 瞬の言葉を、氷河は聞いていなかった。 “心”を与えられ、“愛”を手に入れてしまった人間に、瞬の言うご立派な題目は、少なくとも今はどうでもよいことだったのである。 「この国の王が、心から愛し、求め……?」 「あ……」 そして瞬も本当は今は、自らが告げた告白に対する氷河の反応を知るのを怖れていただけだった。 「瞬……」 互いの思いだけに溺れてしまうことが、あの球体の──つまりは世界の──存続を危うくすることに繋がっている事実を、瞬は知っていた。 「瞬……」 氷河が、ゆっくりと近付いてくる。 瞬は、氷河にじっと見詰められていることに耐えられなくなって、ぎゅっと固く目を閉じてしまった。 あの結界を越えることのできた氷河の“心”は疑うべくもない。 あの結界を氷河に越えさせた自らの“心”もまた、真実のものであろう。 だが、瞬にとっての愛の成就は、その恋人に恐るべき力を与えてしまう、危険な賭けの始まりでもあったのだ。 不安のために、そして、氷河が自らに与えてくれるだろう“愛”への期待と恐れのために、瞬は身体を震わせた。 (僕は……僕は、氷河の力が恐い……!) 自分の意思では制御しきれないところに“愛”は存在する。 実際に自分は、それを自身では制御しきれずに、一人の人間が背負うには重すぎる運命を氷河に負わせてしまった。 陽に透ける金色の髪と、世界の破滅を願うほどに孤独な色をたたえた青い瞳に惑わされて──。 不安と恐れのために、瞬の瞳の奥が熱くなってくる。 氷河の愛──を待って、目を閉じ、その場に立ちつくしている緊張に耐えきれなくなって、瞬は恐る恐る目を開けた。 すぐそこに氷河がいる。 ほんの少し手を伸ばせばすぐ届くところで、だが、氷河は瞬に触れようともせずに、ただ黙って“世界を破滅から救う力を持つ者”を見おろしていた。 瞬は、それで、初めて気付いたのである。 氷河はこれまで人を愛したことがなく、それ故、ただただ怯えているだけの彼の恋人に、何をしてやればよいのかがわからずにいるらしいことに。 瞬は、自分が“世界”の破滅を怖れるあまり、自分の中に確固として存在する氷河ヘの思いを打ち消そうとしてばかりいたことに気付いた。 「こ……こんな……こんなこと……」 気付いた途端、瞬は激しい羞恥の念に捉われたのである。 それが、自分の狭量に対しての羞恥なのか、それとも、これから自らが告げようとしている言葉への羞恥なのかは、瞬自身にもわからなかったが。 「こんなこと言っていいのかどうかわからない……でも……」 瞬の声は、小さく、かすれていた。 「氷河……僕を、だ……抱きしめてください…!」 言い終えた途端、瞬は、自分の頬が力ッと熱くなるのを感じた。 そして、自らの身体が、氷河の腕と胸とにきつく締めつけられているのを感じた。 「瞬……」 喉の奥から絞り出されたような氷河の低い声が、瞬の耳許に届けられる。 瞬は、一刹那、すうっと気が遠くなりかけた。 だが、瞬は、意識を失ってしまうことはできなかった。 恋人を抱きしめている氷河の身体の熱っぽさに触発されたように、瞬の身体の奥に小さく点った火が、徐々に全身に拡がっていく。 自らの熱に耐えきれなくなって、瞬は、氷河に気付かれぬよう、細く長い吐息を洩らした。 しかし、それを氷河に悟られずにいることはできなかったらしい。 瞬の背にまわしていた腕を解き、代わりに瞬の両腕を掴みあげるようにして、氷河は自分の方に瞬の顔を向き直らせた。 互いに見詰め合う瞳の、その深い色が恐くて、氷河と瞬は、二人して息を飲んだのである。 氷河が──そうと意識してはいないのだろうが──瞬を誘うように、瞼を伏せる。 瞬はもう一度、目を閉じた。 次の瞬間瞬は、再び氷河に強い力で抱きしめられ、唇を奪われていた。 息もできない。 そして、何も考えられなくなった。 口付け一つが、これほどの陶酔を人にもたらすものなのならば、“愛”とは確かに諸刃の剣であり、その存在の是非を、創造主にすら判断しきれないのは当然のことだと、瞬は思った。 |