「戦いと──殺戮によって自らを保っている人……」
太陽がすっかり中天に昇りきってしまっている。
春の穏やかな日差しを受けて輝いている氷河の髪に、瞬は目を細めた。
覚醒している時にはすべてのものを射抜くように鋭い眼差しの持ち主が、眠りにつき瞳を閉じている時には、彫刻のように静かで穏やかな存在に見える。
痛みの残る身体の向きを変え、横になったまま、瞬は氷河のその頬にそっと指で触れ、そして、小さな声で眩いた。
「そんなことないよね、氷河。そんなの、嘘だもの……」
「誰が言ったんだ、そんなことを」

眠っているものとばかり思っていた氷河の低い声に、瞬が、びくりとその指先を強張らせる。
きつく、手首を掴みあげられた瞬は怯えた目をして、恐る恐る氷河を見あげた。
が、氷河の氷の色の瞳は、さほど険しい光をたたえてはいなかった。
瞬は幾度か瞬きを繰り返しつつ、その瞳に見入っていたのだが、やがて、ほっと肩で息をすることになったのである。

「──氷河……が、この国に来て10日も経った頃、外の国の――北部の連合軍の将軍だという人が 僕に会見を求めてきて、氷河を渡すようにと僕に要求したんです。……ごめんなさい。言わずにいました……」
「契約期間が過ぎたから出ただけだぞ、俺は、あの軍を」
「……」
瞬は悲しそうに首を振った。
顔を、半分シーツに埋めるようにして、かすれた声で告げる。
「“世界を破滅させる力を得る者”と“世界を破滅から救う力を持つ者”──相反する二つの力を持つ者が揃ったことによって、これまで平和の代名詞だったこの国は、いまや諸国の脅威の的になった――と言われました」

『王よ。人間というものは怖れるものだ。他人の持つ力に捻じ伏せられてしまうかもしれないという疑心暗鬼に捉われて。あの者――“世界を破滅させる力を得る者”が、王の国にいる限り、我々は、我々が王の国に滅ぼされる恐怖に支配され、怯える日々を過ごすことになるだろう』
老練な将だった。
闇雲にこの国への侵入を計り、沖の海流で、谷の気流で、いたずらに兵の命を失ってきたこれまでの将とは、彼は少しばかり様子が違っていた。

『僕と氷河が一緒にいれば、力は相殺されますよ』
『王の国には王がいる。王の国の外には、あの男が必要なのです。二つの勢力が、それぞれの力をもって威嚇し合えば、均衡は保たれる。王は、それを平和と呼ぶのでしょう?』
国境の気流の外で、武器も持たずにたった一人で、その将軍と将軍の率いる軍隊に対峙した瞬に、彼は礼を尽くし、いたって紳士的にその要求を提示してきた。

『そんなもの、平和とは言いません。平和とは、人間の理性と穏やかな生活を望む心と、他人を慈しむ優しさによって保たれるものです!』
瞬の主張に、だが、その将軍は、戦いに疲れた老入のような眼差しを向けて、言ったのだった。
『あの男には縁のない言葉だ』
『な……なぜ……?』
『王は、あの者が戦っている姿を見たことがない。あの男は、戦いと殺戮によってのみ、自らを保つことのできる男です』
『……そんな……』

それから数十日、会見のことは氷河には告げず、瞬は、ずっと氷河を見詰めていたのである。
表情の変化に乏しく、滅多に感情を表に出さず、すべてのものを拒絶しているように冷たい目をしている──と思いはしたが、彼がそういう人間になってしまった経緯を推察すれば、瞬は、ただただ哀しい思いに支配されるだけだった。たとえこの国の外で、氷河が戦いと殺戮によってのみ自らを保つことのできる男であったのだとしても、この国に──この国にいさえすれば、彼も平和を愛する人間でいられるはずだと、瞬は思ったのである。
事実 氷河は、この国で日々を過ごすにつれ、少しずつ やわらかな表情を見せてくれるようになっていた。

「──大軍だったろう」
「……40万の兵を従えていると言っていました。この国の人口の40倍です」
国境に巡らされている気流の幅は、それほど厚いわけではない。
30万の兵を犠牲にする覚悟があるのなら、残りの10万の兵は、確実にこの国を攻め滅ぼすことができるはずだった。
「平和を望む心からではなく――神託を受けた者を怖れるが故に、彼等は引き下がったのです」
唇を噛みしめる瞬を横目で見て、氷河は――氷河は、瞬のその細い肩を抱きしめてやりたい衝動にかられた。
妙な気恥ずかしさのために、彼はそうすることができなかったのだが。

「この国の外で最も勢力のある国の軍隊だ。俺を自国に留め置くために、金も領土も女も、どの国より多く俺に提供した。神託の力を手に入れるためにあの国を出るまで、俺はあの国で、神託を受けた者としての立場を利用し、王に次ぐ権力を手に入れて、好き勝手に過ごさせてもらった」
瞬に軽蔑されるのを覚悟して、氷河はその事実を瞬に告白した。
清潔なこの国の王には、仮にも自らが“世界を破滅させる力”を与えた者の以前のその行状は許し難いものであろうと、氷河は思った。

瞬が、寝台の上に身体を起こす。
そうしてから、瞬は、その白い手を氷河の胸に静かに置いた。
「ついさっきまで、僕は気付かずにいました。氷河の身体は傷だらけで――怪我の跡がたくさんあって――それは多分氷河がたくさんの戦さをかいくぐって生きてきたからです。僕は、僕の受けた神託のおかげで、兄にも両親にも国の民にも大切にされ、幸せに今日まで生きてきたのに……」
「瞬……」
「氷河ヘの神託は、僕が氷河を愛してしまうだろうことを見越した神によって与えられたものです。氷河は、僕のせいで つらい思いをしてきたんです……!」

言葉と共にほとばしり出た瞬の涙の雫が、氷河の肩に落ちる。
こんなにも素直に他人のために涙を流してしまえる瞬の存在が、氷河には奇跡のように思われた。
強大な力を持った、この小さな存在が、健気で愛おしい。
両親の死や、自らのこれまでの境遇が、すべて瞬の持つ力に巻き込まれた結果なのだとしても、その代償として得られるものが瞬の愛だというのなら、過去に起こったことのすべてを肯定することもできる。
氷河は、瞬の手を引き、その胸に彼を抱きしめた。
瞬の涙は、それでも止まらなかったが。

「ご……ごめんなさい、氷河。氷河があの将軍の言うような人じゃないって、僕、知っているつもりだったんです。でも、氷河……が、まるで獣のような目をして僕を……あの……だ……抱きしめるから、僕、恐くなって、それで……」
瞬の告白に、氷河は瞬を胸に抱いたまま、瞳を見開いてしまった。
つまり瞬は、あまり乱暴に愛されたために、怯えてしまった──ということなのだろうか──?
「ごめんなさい……。お……思い出したくなかったんでしょう……?」
清らかな──清らかな心と肢体を持った平和の国の王に、氷河は、つい下卑たことを尋ねてしまっていた。
「もう、いやか?」
「え……?」
「恐かったんだろう?」
「……」

瞬は、すぐには答えを返してよこさなかった。
かなりの間をおいてから、消え入るような声で囁く。
「で……でも……それだけじゃなかったから……」
氷河の胸の上にある瞬の頬が熱を帯びる。
この世界で最も強大な力を持つ神の国の王は、またひどく可愛らしい恋人でもあった。






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