「実に程良い怪我だな。致命傷には至らず、出血が多く、人のいいどこかの国の王の同情を引くのには、丁度良い傷付き具合いだ」
氷河は口にしなかったが、一輝ははっきりと口にした。
「瞬を大事と思うなら、不審な怪我人を安全な死人にするくらいの機転をきかせるべきだったな、氷河。瞬の泣き落としごときに動じていて、瞬を守れるか!」
「……」
この国でただ一人の医者でもある瞬の兄は、いたって辛辣、かつ正直な男だった。
瞬の前でも、平気でそういうことを口にする。

「兄さん、なんてこと言うんです! この人、血の気がなくて、頬なんか真っ青じゃありませんか! 僕たちの国に保護を求めてきたのでなくても、助けてあげるのは人間として当然のことでしょう!」
「おまえがそんなだから、俺は猜疑心の強い人聞にならざるを得ないんだ」
一輝の言うことには、氷河も賛同していた。
ただ、それを口にしてしまい、この状況が2対1になると、アイザックへの瞬の肩入れが増すだろうことが確信できるから、氷河は何も言わずにいたのである。

「とにかく、僕、今夜はこの人に付いています! 武器も持っていないんだし、大丈夫ですよ。素手対素手なら、僕、誰にも負けませんから」
「……」
言い出したらきかない瞬をよく知っている一輝が、嘆かわしげな吐息を洩らしてから、氷河に向かって顎をしゃくる。
「氷河。一緒に付いていろ」
「言われなくてもそうする」
タイプが似ているため、今ひとつ打ち解け合うことはできなかったが、一輝も氷河も、互いに瞬を愛する同士としての信頼だけは抱くことができていた。
氷河の返答を確認し、一輝が病室になっている部屋を出ていく。
氷河は、アイザックの枕許の椅子に腰掛けている瞬に視線を戻した。

「氷河。この人、左目に古い傷があります……」
「昔、俺が負わせた傷だ」
「……え?」
瞬が、氷河の言葉に弾かれたように振り返る。
「ど……どうして……?」
「――こいつはかなりの使い手だ。本気で戦わなければ、俺の方がやられていた」
「そんなことを訊いているんじゃなくて……!」
瞬が、素っ気ない氷河の答えに、切なげに眉根を寄せる。
だが、氷河は、瞬が素直に納得してくれるような瞬好みの優しい理由を持っていなかったのだ。
ない袖は振れない。
「この男が、俺の敵として俺の前に立ったからだ。盟主が俺を厚遇するのが気に食わなかったんだろう」
「氷河……そんなことじゃなくて……」

瞬の求めている“答え”がどういうものなのかということは、氷河にも わかっていた。
瞬が求めているのは、なぜ二人は戦う以外の解決方法を採らなかったのか――ということ疑念に対しての“答え”なのだ。
なぜ人は戦いを選んでしまうのか――。
それが、瞬にはわからない。
氷河は壁にもたれ、腕を組んだ。
人が戦いを選ぶその訳を、どう告げればいいのか――それはつまり、人間というものが心弱い存在だから――なのであるが。

「――おまえの両親は、この国を守るために死んでいったんだろう? おまえは、その時、その事実をどう思った」
「どう――って……。悲しかったです。両親も、そして、父や母が力を使い果たさなければならないほどに、この国を攻め続けた人たちも……。僕はまだ、小さかったですけど――」
なぜ氷河がそんなことを尋ねてくるのか、瞬には合点がいかなかったらしい。
眠りから覚めない怪我人を痛ましそうに見やりながら、瞬は答えた。

「――大抵の者は、悲しみを粉らすために、殺害者を憎む。そして、悲しみを怖れるが故に、被害者ではなく加害者たらんとする。自らの滅びを怖れるが故に、支配欲は生れる」
「……」
氷河の言わんとするところを理解したらしい瞬は、悲しげな眼差しを氷河に向けてきた。
「悲しい哀れな人間を増やして、どうなるというんです」
「自分にその番が回ってこないように、力を求めるんだ」
「……」
瞬には、反論の言葉を見付けることができなかった――ようだった。
黙り込んでしまった瞬たちの耳に、細く寂しげな夜啼き鳥の声が届けられる。
氷河は、深く、一度、嘆息を洩らした。

「俺も……たとえば、誰かにおまえの命を奪われたら、その者を憎み、そしておそらく、その者の命を奪うだろう。以前ならそれだけで済んだが、今は――」
「氷河……?」
「今の俺は、そいつの住む世界を消し去ることもできるな」
「氷河……!」
ガタンと音を響かせて、瞬が椅子から立ちあがる。
そして瞬は、壁にもたれかかっている恋人にすがりつくように、氷河の両の腕を拳で握りしめてきた。

「駄目……! 駄目です、そんなこと……!」
「……そうなったら、俺は俺の命にも未練などない」
「氷河!」
氷河が“力”を持っている特別の人間でさえなければ、それは、もしかしたら、情熱的な恋人の言葉として喜んでしまっていいものなのかもしれなかった。
が、実際に氷河はその“力”を持っているのである。
恋人に熱愛されている、ただの可憐な花として氷河の前に存在することは、瞬にはできなかった。

「もしそんなことが起こったら、でも、氷河は“力”を使うようなことはしません! 氷河は僕の代わりに“世界”を守ってくれるんです!」
「おまえのいない世界をか」
「僕の大事な氷河の生きている世界です!」
瞬は、それこそ必死だった。
その“力”を持つ者が、恋人がすべて――という意識に支配されていてはならないのである。

「おまえなしで生きていくことなど、今更 俺にはできないだろう」
「それでも……! それでも、氷河! この世界には、人を愛して生きている人がたくさんいるんです! 氷河が手に入れてしまった神だけが持つべきその力は、決して使われることがあってはなりません! 氷河が、そんな、破壊神になってしまうようなことは、決してあってはならないんです!」
瞬の訴えに、氷河が ゆっくりと左右に首を振る。
瞬の命が奪われてしまうような世界は、彼にとっては存在価値のないものだった。

「おまえになら、そんなふうに考えることもできるだろう。おまえは、俺以外にも生きる目的を持っている。だが俺は……俺は、せいぜいそれがおまえの望むことだから、あの球を破壊しないと約束してやることくらいしかできない」
「氷河……」
氷河の“約束”に、瞬は、とりあえずの安堵を手に入れることができたらしい。
ゆっくりと、氷河の胸に その身体を投げかけてくる。
「氷河……。人は……愛し合っていた方が豊かでいられるでしょう? 一人でも多くの人を愛していた方が……」
唇が、どちらからともなく重なる。
溜息のような口付けを与えてくれる恋人だけを、氷河は必要としていたのだが。

「――おまえに会うまでは……信じていなかった言葉だ……」
そう囁き、更に強く瞬を抱きしめようとした氷河の腕を、瞬はするりとすり抜けた。
「駄目です。怪我人のいる部屋で」
恥ずかしそうに氷河をたしなめて寝台を振り返った瞬は、そこに、いつのまにか身体を起こしてしまっている怪我人を見い出して、頬を真っ赤に染めることになった。

「あ……ご……ごめんなさい。あの……お怪我は大丈夫ですか? 痛みません?」
慌ててその場を取り繕おうとした瞬の上を素通りして、怪我人の視線は 氷河の上に向けられていた。
挑戦的な怪我人が、かつての宿敵に呆れたような言葉を吐き出す。
「鬼神とも怖れられていた男が、甘ったるいセリフを吐くようになったものだ」
氷河は、蔑みに似たその言葉に、だが、動じた様子は見せなかった。
“甘ったるいセリフ”を吐いていた時の声音とは全く違う、完全に抑揚のない声で、氷河は怪我人の挑発を受け流した――あるいは、受けてたった。

「今の貴様と同じように俺も、瞬に会うまでは その甘いものの力を知らずにいた。俺は、瞬のためになら、200万とも500万とも言われている貴様らの軍に刃向かう暴挙に及ぶこともできるだろう。確かに甘い男になってしまったかもしれないが、俺は瞬のためになら、以前より残酷にもなれる」
「氷河……!」
それは、瞬の望んでいる“愛”とは、甚だしく内容の異なるものだった。
瞬の咎めるような口調に、氷河が口をつぐむ。
瞬は、アイザックに向き直り、少し無理のある笑みを彼に向けた。

「あの気流の壁を突き破ろうなんて無茶なことなさるから、そんな怪我を負うことになってしまったんですよ。この国に用があるのなら、あの気流の中に書簡を投じれば、それは王の手許に届くんです。ご存じなかったんですか?」
「気流の外での王との会見が目的ではなく、この国の内に入り込むことが目的だったのでな」
いたわるように言う瞬にではなく氷河に、彼は瞬に問われたことへの答えを返してきた。
こんな子供の相手などしていられるかと言わんばかりの態度で、彼は 彼の左目を奪った男を睨みつけた。
「俺は、策もなしに、貴様を捕らえることができるなどとは思ってはいない。貴様の女に危害を加えるつもりもない。ただ、この国の王の居場所を――“世界を破滅から救う力を持つ者”の居場所を知りたいだけだ」
「知らんな、そんなことは」

氷河は、素っ気なく言って、横を向いてしまった。
そんな氷河を少しきつく睨み、瞬が、彼をいさめる。
「氷河! お友達に、そんな意地悪しちゃいけません!」
そして、瞬は再びアイザックに向き直った。
「アイザック。この国の王は女性ではありません。でも、今日は もう休んでください。お話があるのなら、明日伺います。今夜は側についていますから、傷が痛かったり、つらかったりしたら、遠慮なく言ってくださいね」
「――」
アイザックと“お友達”などというものになった記憶も つもりもなかった氷河は、苦虫を噛みつぶしたように顔を歪めることになったのである。
アイザックはアイザックで、『この国の王は女性ではない』という瞬の言葉の意味を理解できずに、そして、やがて理解して、瞬をまじまじと見詰めることになった。

「お……王自ら、助けても刃向かうだけの者を、なぜ介抱する」
あまりに意外な事実を知らされて、少しく どもりながら、彼は“王”に尋ねた。
平和の国の王が、逆に不思議そうな眼差しをアイザックに返してよこす。
「なぜ そんなことを訊くんです。だって、あなたは怪我をしているんですよ」
「……」
アイザックは再び口をつぐんだ。
怪我をしているから介抱する――そんな馬鹿なことを実行する人間が、この世に存在するはずがないではないか。
憎んでも飽きたりない敵ではあったが、それでもこの国の王よりは自分に近い世界にいるであろう氷河に説明を求めるように、アイザックは彼の“お友達”を見やることになったのである。

が、氷河はアイザックに何の説明も与えなかった。
彼は、瞬のアイザックヘの厚意を非常に不快に感じてはいたが、それでも瞬の言動を、瞬ならば当然のことと思っていたのだ。
“世界を破滅させる力を得る者”と“世界を破滅から救う力を持つ者”――そのどちらかを手に入れるために、アイザックがこの国に入り込んだのだろうことを、氷河は承知していた。
だが、多分、自分がそうだったように、アイザックもまた、瞬の善良さに触れているうちに、この国が外の国とは違う律に支配されている国なのだということを知るようになるだろう――と、彼は思っていたのである。
戦いや敵意の存在しない質素で静かな生活、穏やかな人々、豊かな自然、可憐な王の優しさ――毎日そんなものに触れていて、自分の内に敵意や害意を保ち続けるのは困難なことである。
気を張っていればいるほど、好戦的な人間は、対峙する人間の好意的な態度に調子を狂わされてしまうのが落ちなのだ。
そして、国境の気流を自在に操る瞬の力がある限り、アイザックが瞬をさらっていくことは不可能なことのはずだった。






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