アイザックの敵意を知っても瞬はそうするのだろうと氷河が推察していた通り、アイザックの怪我が癒え、自由に歩きまわれるようになっても、瞬は彼から自由を奪わなかった。 神殿以外の場所への立ち入りを許し、あまつさえ瞬は、自分の毎日の仕事にアイザックを付き合わせようとさえした。 心底嫌そうに、馬鹿らしそうに、水を汲んだり、子供の相手をしたりしているアイザックの上に、かつての自分の姿を見い出して、氷河は随分楽しい思いをさせてもらった。 それは、この国の外では決して観劇できない最高の悲喜劇だったのである。 「そんなに僕か氷河のどちらかを自分の側に置きたいのなら、アイザックもずっとこの国にいればいいと思います。その方が僕も嬉しいです」 全くもって理に適っている瞬の主張に、アイザックは苛立ちを禁じ得なかった。 が、ともかくアイザックは、不可解な国王の治めているこの国での生活に、恐ろしいことに徐々に慣れていってしまったのである。 「――あ、アイザック! 氷河は 「いっそ、あそこから落ちて死んでくれればいい」 「……」 随分と親切なアイザックの物言いに、瞬はきょとんとして、階段を下りてくるアイザックを見あげることになった。 気を取り直して、その階段を上り始める。 「ちょっと遅れてしまいましたけれど、もうすぐお昼ですから、アイザックも食堂の方に行ってください。慌てて転んだりしないでくださいね」 「この俺がそんなドジを踏むか……!」 と、言い終わる前に、アイザックはドジを踏んでしまっていた。 「アイザック!」 遠近感を、アイザックは、左目の光を失うと同時に失ってしまっていたのである。 段を踏み外してしまったアイザックを助けようとして階段を駆けあがりかけた瞬は、しかし、彼を助けるどころか、逆に彼と一緒に階段の下まで転げ落ちることになった。 床も階段も石造りである。 瞬を緩衝にすることのできたアイザックは難を逃れることができたが、瞬は頭を打ってしまったらしく、完全に気を失っていた。 「瞬!」 アイザックは慌てて自分の身体を瞬の上からどかせた。 脳震盪を起こしてしまっているらしい瞬をその場から動かすこともならず、かといって、そのまま瞬を放ったらかしにして食事に行ってしまうわけにもいかず、彼はそこで目一杯 往生してしまったのである。 戦場なら放っておけるものが、なぜ場所がこの国になった途端に捨て置けないものになってしまうのか、彼はどうにも合点がいかなかった。 (……こんな、片手一本で骨を折ってしまえるような華奢な身体を緩衝代わりにしてしまったというのは、自慢にもならないからだ……!) それより何より、自分の踏んだドジを氷河あたりにばらされてしまっては、男の沽券に関わる。 「おい、瞬! さっさと目を覚ませ!」 ピタピタと瞬の頬を叩いていたアイザックは、いつまで経っても気付いてくれない瞬に嘆息し、やがて その頬を叩くのをやめた。 代わりに、その手を、瞬の白い頬に力を入れずに押し当てる。 (いったいどうしてこんな奴がこの世の中に――しかも、氷河のような奴の側にいるんだ……) どうにも納得できずに、アイザックは、気を失っている瞬の白い顔にしばらく見入っていた。 やがて瞬が意識を取り戻したのに気付いて、慌てて瞬の頬の上に置いた手を引く。 「あ……ご……ごめんなさい、アイザック……! 僕、かえってアイザックに迷惑かけちゃったみたい……」 身体を起こし、コンコンと自分の頭を叩きながら、瞬は照れ隠しのような微笑を作った。 「……」 瞬の笑顔を素っ気なく突き放してしまうことも、ましてや、笑い返してやることも、アイザックにはできなかった。 無言で、無表情に、アイザックは瞬を見詰めた。 瞬が、それが何故の凝視なのか得心できずにたじろぎつつ、瞼を伏せる。 それから瞬は、ふと顔をあげ、その白い指先で、アイザックの左の目にそっと触れてきた。 「……氷河から聞きました。この目、氷河のために失ったんでしょう?」 瞬の指がアイザックの髪を払い、傷の跡をなぞる。 痛ましそうな目をして、瞬は言葉を継いだ。 「どうか氷河を許してあげてくださいね。氷河だって、きっと後悔しています。氷河は平気な振りしてるけど、でも、きっと……きっと氷河は、アイザックを傷付けることで、自分自身も傷付いたと思います。きっと、氷河は寂しくて――孤独感のやり場がなくて、それで、自分に敵対する人を想定し、その人たちと戦うことで自分を保とうとしていたのだと思います」 「……」 涙をためて、いったいこの世間知らずの子供は何を言っているのだろうと、アイザックは思ったのである。 氷河はためらいもせずに、剣を一閃させた。 氷河が敵の命を奪わなかったのは、傷付いた敵に生き恥をさらさせようという残忍さの故だったろう。 あるいは、ただ単に『興が乗らなかった』だけのことにすぎない。 「昔のことなど忘れた」 思い出したくもない かつての敗北を思い出させられて、アイザックは、ふいと瞬から顔をそむけた。 瞬の手が宙に取り残される。 その手を、瞬はゆっくりと下に降ろした。 「――とても……強くて優しいんですね。ありがとう、アイザック」 (……誰が優しいだと !? ) アイザックは馬鹿馬鹿しくて、それ以上こんな茶番に付き合っていたくなどなかったのである。 氷河のための涙なのかそうでないのかはわからないが、いずれにしても他人のために瞬の瞳ににじんでいる涙と、甚だしい誤解のもと、“寂しい人”にされてしまった氷河と、“強くて優しい人”にされてしまった自分と――。 アイザックは、冗談ではなく頭痛を覚えて、すっくとその場に立ちあがった。 いつまでもこんな国でぐずぐずしてはいられない。 当初の目的であったこの国の王の拉致は、たった今も容易に実行できる状況にあるのである。 「瞬、おまえ、いったいそんなところで何を――」 残念ながら、アイザックがそう思った途端に、邪魔な男が約一名その場に姿を現わして、せっかくの彼の決意と計画を実行不可能なものにしてくれたのだが。 「アイザック! 貴様、瞬に何をしたっ!」 邪魔な金髪男は、瞬の睫毛に残る涙の雫に気付くと、すぐさま、烈火のごとくに眉をつりあげて、踊り場まで階段を駆け下りてきた。 「……」 こういうシチュエーション自体、既に何かがおかしいのである。 氷河が正義の味方然として瞬を庇い、その前に立つことも、敵意を剥き出しにして隻眼の“いじめっ子”を睨みつけることも。 アイザックの知っている氷河は、敵に対峙する時には いつも無表情だった。 「氷河、違うの! 違うんです! 僕、嬉しくて泣いているんです! 氷河、そんな恐い顔しないで!」 「嬉しくて……?」 そんなことで人が泣いたりすることがあるのだろうか――と、氷河は瞬の言葉を訝った。 が、瞬にしてみれば、それは、いたって自然な行為だったのである。 「アイザックが優しくて、だから嬉しかったんです。氷河、アイザックに謝って」 「――」 瞬ならそういうことも――嬉しくて泣くということも――あるのかもしれない――と、氷河は思わないでもなかった。 しかし、どういうわけか、氷河にはそれがひどく不愉快なことに感じられ、とてもではないがアイザックに謝罪する気になどなれなかったのである。 そしてアイザックも――彼は、これ以上この国にいて瞬を見ていると、頭がおかしくなってしまいそうだった。 瞬は、善意と好意の塊りで――おそらく、信じている“友人”に裏切られたら、泣くだろう。 友人の裏切りを悲しんで泣くだろう――。 「……」 後味の悪いことになりそうだと、アイザックは、瞬に気取られないように舌打ちをした。 そして、そんなふうに思うようになってしまった自分自身に対しても。 |