そういう訳で、結局、待てど暮らせど、氷河の許に瞬のお呼びがかかることはなかったのである。 興味のないスズメたちは向こうから網の中に飛び込んでくるというのに、生れて初めて本気で欲した相手は近寄ってもきてくれない。 人生の為し難さを、氷河は痛感していた。 F1ドライバーの仕事はコースを走ることだけではないということは、氷河とて十分承知してはいるのだが、それにしても、これでは何のためにカナダ一番乗りをしてきたのかわからないではないか。 瞬の仕事の邪魔をするわけにはいかないと考えて、逸る心を懸命に抑えていた氷河も、さすがに決勝当日まで瞬と一言も口をきけないまま無為に時を過ごす羽目に陥るに及んで、我慢も限度と堪忍袋の緒を切ってしまったのである。 今日の決勝が終われば、当然2、3日中には瞬も次のグランプリ開催地であるメキシコに移動してしまうだろう。 (そんなことになったら、俺は本当にただの馬鹿だ!) そんな不様な真似はできるものではない。 是が非でも決勝レース開始前に瞬を捕まえなければと、氷河は、レース開始3時間前から瞬の姿を捜してサーキット中を駆けまわったのである。 そうして散々走りまわった後でやっと見付けることのできた瞬は、ピットの裏手にあるマシン運搬用トラックの駐車場で、ひどくショッキングなシーンを演じていた。 ショッキングといっても、それは大して珍しいことではない。 一輝と何やら和やかに話をしていた瞬が、急に爪先立って、兄の頬にキスをしたのである。 よくあることではあるし、それが瞬と一輝の間で為されたことでさえなかったら、氷河は驚きもしなかっただろう。 だが、二人は日本人なのである。 一輝などは長く英国に住んでいたが、7、8年程度の欧州暮らしでヨーロッパナイズされる一輝とも思えない。 何故そんなことをするのだろうと、我が事ながら不思議ではあったのだが、氷河は反射的にプロジェクトHSのトラックの陰に身を隠してしまったのだった。 やがて一輝が、トラックの陰に身を潜ませている氷河に気付かずに、彼の目の前を掠めてピットの方に歩いていく。 少し遅れて兄の後を追った瞬が、もし、氷河の姿を見付け出さなかったら、氷河はずっとその場に立ち尽くしていたかもしれない。 だが、瞬は、そこに氷河の姿を見い出した。 「氷河……? こんなところで何してるんです?」 無表情で怒っているような氷河の瞳の色に、瞬が首をかしげる。 ややあってから、瞬は、今の兄との戯れを氷河に見られたらしいことに気付いた。 だからといって、氷河のその表情の訳が理解できたわけではなかったのであるけれども。 「今の見てたんですか? そんな顔して、どうしたんです。おまじないですよ、ただの。兄さんのフィアンセが僕そっくりで、だから、彼女の代役しただけ。変な誤解しないでくださいね。兄さんとエスメラルダさん、すごく仲がいいですし、けど、エスメラルダさん、16戦全部チームに付いてまわるなんてできないから……氷河……?」 事情を説明しても、いっかな険しい表情を緩めようとしない氷河に、瞬が眉をひそめる。 いっそこのまま放っておこうかとも思ったのだが、あらぬ噂を立てられては兄の立場がなくなると考えて、瞬は再び口を開いた。 「誰だって、するでしょ? イタリアやフランスの方々なんて、スタッフの前で堂々と……」 これがイタ公やフランス男のしでかしたことなら、氷河とてショックを受けたりなどしないのである。 否、それがたとえ日本人同士の絡みだったとしても、その片割れが瞬でさえなかったら、氷河は動じることはなかった。 事情を聞かされても、なぜか怒りの感情は消え去ってくれない。 「なら、俺にもおまえの幸運を分けてくれ」 なぜライバルチームのドライバーの幸運を祈ってやらなければならないのかと思う間もなく、瞬は氷河に抱きすくめられ、そして唇をふさがれていた。 「や……っ!」 訳のわからない展開に瞬が驚き、氷河の腕から逃れようとする。 「は……放せ……っ!」 が、放せと言われて放す馬鹿がどこにいるだろう。 必死に氷河の胸を押しやろうとする瞬を、氷河は逆に更にきつく抱きしめ、頬から瞼、瞼から耳許へと唇を何度も行き来させた。 そして、その言葉を口にする。 「好きなんだ、瞬」 「な……なに言ってるの……」 そういう冗談を、瞬はあまり好きではなかったし、もしそういう冗談を口にするのなら、時と場所を選んでほしかった。 それは、冗談を冗談として笑い飛ばせるシチュエーションで言った場合のみに言うことの許される冗談である。 「氷河……! 冗談はレースの後で言ってください!」 が、もちろん氷河は真剣なのである。大真面目なのである。 今の氷河には、レースなど二の次、三の次の問題だった。 「好きなんだ」 この告白が真面目なものだと瞬に信じてもらえるまで、氷河は瞬を解放するつもりはなかった。 どうすればこの思いが真剣なものだと瞬に信じてもらえるのか、そのための有効な手段が思いつかない氷河には、ただひたすら瞬を抱きしめる腕に力を込めることしかできない。 そして、瞬は、氷河の腕に力が込められれば込められただけ、氷河の冗談に悪質さを感じることになったのである。 「そ……そんなの、信じられるわけないでしょ……! 氷河って、スピードと──」 「女の漂流者か? しかし、それは、俺が今まで瞬を知らずにいたからだ。瞬のように、必死で危険な綱渡りをしているような、どうしても目を離せない、こんなに気にかかる、心惹かれる人間に会ったことがなかったからだ。どうしても手に入れたいものが目の前にいたら、俺だって真剣になる……!」 「あ……」 冗談を言っているにしては、あまりに熱っぽい氷河の声音に、瞬はしばし戸惑うことになった。 これがジョークなのなら実に質の悪いジョークであるが、もし氷河のその言葉が本心からのものであったなら、それをジョークで片付けることは氷河を傷付けることになってしまうかもしれない。 だが、瞬には、それが冗談なのか、真面目な心の吐露なのかの判断がつかなかったのである。 これまで長い間ずっと、兄と同じサーキットでマシンを駆ることだけを夢見て時間を過ごしてきた瞬は、色恋沙汰に関心を持ったことがなかったし、こんな、まるで血を吐くような告白を受けたこともなかったのだ。 「ぼ……僕……」 いったいどうすれば氷河の意図を正しく見極めることができるのかがわからず、また、もし氷河の告白が真面目なものだったとしたら、彼を傷付けるようなことはできないと考えて、瞬は、ほんの少し、氷河の胸を押し戻そうとしていた自分の腕と肩から力を抜いた。 それに気付いて、氷河も、幾分腕の力を緩める。 冗談なのか本気なのかはわからないが、それでもとにかく初めて経験する愛の告白と抱擁とに頬を真っ赤に染めている瞬の顔を、氷河は母親から受け継いだ青い色の瞳でじっと見詰めた。 真剣そのものの氷河の眼差しの中に戯れの光を見い出すことができず、瞬が当惑しかけた時、氷河の人生の中で最も重要な時間を、数人の女性の甲高い嬌声が遮ってきた。 「氷河! こんなところにいたの!」 「私たち、ずっと捜していたのに!」 「カナダに来てから、ずっと付き合ってくれないんですもの。今日のレースが終わったら、少しは時間もとれるのでしょ?」 サーキットに付き物の華やかな女性陣が、早口でまくしたて始める。 耳障りな英語に、瞬ははっと我にかえった。 そして瞬は、ここにいる金髪の男は、国際F3000の時代から、不道徳な行跡で名を馳せた不誠実な男なのだということを思い出したのである。 「こ……こんなことで僕を動揺させようったって、無駄だからねっ!」 ほんの一瞬とはいえ、こんな男の言葉を信じかけた自分がひどく愚かな人間に思えてくる。 肩に置かれていた氷河の手を振り払い、瞬は、その場から逃げるように駆け出した。 「瞬っ !!」 引きとめようとする氷河の声は、瞬の耳には届かなかった。 届いていたとしても、氷河には瞬を引き戻すことはできなかっただろう。 プロジェクトHSのピットの中に逃げ込まれてしまっては、氷河にはどうすることもできない。 そこは、グラード・グランプリに所属するドライバーの出入りが許される場所ではないのである。 「近寄るな、馬鹿野郎っ !! 」 悪いのは他の誰でもない自分自身だとわかってはいるのだが、自分の憤りの持って行き場がなかった氷河は、彼を捜してここまでやってきた女性陣を蹴散らし怒鳴りつけることで、鬱憤を晴らすことしかできなかった。
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