「アテナの聖闘士をひとり、貰い受けたいのですが」
声は確かに氷河の声だった。
彼自身も、自分はかつてはアテナの聖闘士だったと認めた。
「よかろう」
「では、アンドロメダを」
それが瞬以外の誰かだったなら、ドルバルは苦い顔を見せたのかもしれない。
かつての仲間を見る瞬の瞳の中に、切ない憎悪のようなものを見い出したから、ドルバルは氷河の姿をした者に それを事もなげに許したのだ。おそらく。

それは正邪を越えた感情のほとばしり、ある種の歓喜だったのかもしれない。
あれほど嫌っていた白い極北の地、この北の果ての地で、氷河が何を見詰め、何に思いを馳せているのかを、瞬はいつも考えていた。
母親のこと、失った師のこと、自分を捨てた父のこと──少なくとも、彼が思いを馳せる対象は、日本で彼の帰りを待っている仲間たちのことではないのだろう──と。
だが、いざ、その北の地で氷河の瞳を探り見れば、彼の瞳に映っているのは、彼の母でも父でもなく──少なくとも今この時その瞳に映っているのは、アテナの聖闘士――アンドロメダ座の聖闘士だけだった。
ヴァルハラ宮の主によって何らかのカと操作を加えられ、本来の価値観と判断力のあり方を歪められているのだとしても、瞬はその事実に、一瞬、自身の力では抑えることができないほどの喜びを覚えたのである。

「──で、その者をどうするつもりなのだ、ミッドガルド」
「これは、以前から我が物にしたいと思っていた者」
「アテナの聖闘士でいたならば、その願いは一生叶うことはなかったであろうよ」
「教主にお会いするまでは、このミッドガルド、なかなかに愚かな男でしたので」
老人の心のように何もない大広間の中央でドルバルに脆いていた氷河──ミッドガルド──は、皮肉に口許を歪ませて立ちあがり、仲間の変貌を呆然として見詰めているかつての戦友たちに、見下すような視線を投げた。
アテナの聖闘士キグナスには似つかわしくないが、ドルバルに従うゴッドウォーリア・ミッドガルドには──炎も凍りつかせるような目をした今の氷河には──むしろ似合いなのかもしれない、燃えるような色の神闘衣。
あざけるように絡みつくドルバルの視線と、ミッドガルドの蒼く凍りついた瞳の奥に微かに見え隠れする小さな炎とに動きを封じられ、瞬は気が遠くなりかけていた。

「ひ……氷河っ! てめー、気でも狂ったんじゃねーのかっ! 瞬は……いや、俺たちは仲間だったはずだろ!  俺たちはアテナの聖闘士なんだぞっ!」
「アテナが、この俺に何を与えてくれたというのだ」
いつもながら血気盛んな星矢の言葉を、ミッドガルドは肩越しに受け流した。
その手が、教主に下賜された品の左の二の腕を乱暴に掴み取る。
「氷河……」
瞬は、獲物を射抜くようなミッドガルドの眼差しに、どう対応すればいいのかを迷っていた。
否、今ここにいる自分は、アテナの聖闘士なのか、それともただの瞬という一個の人間なのかという判断に、瞬は迷っていたのである。

もっとも、自分がそのどちらかであるという結論を得ることができたところで、瞬はミッドガルドに対して何をすることもできなかっただろう。
そこにいるのは、アテナの聖闘士にとっては多くの死闘を共に闘ってきた仲間であり、“瞬”にとっては大事な友人であり──どちらにしても傷付け倒すことなど思いもよらない存在だったから。

(友人……?)
以前から瞬の内にわだかまっていた疑問が、ふいに頭をもたげてくる。
氷河がシベリアに赴くのを見送るたび、瞬は思っていた。
もしかしたら、自分は氷河にとって仲間どころか友人ですらないのではないだろうか──と。
今ここで、大人しく彼に従えば、もしかしたら自分は氷河の友人に──否、彼にとっての何物かになれるのかもしれない──。

それは、一瞬の迷いだった。
「来い、アンドロメダ」
「あ……」
そして、多分、瞬は、その迷いに身を任せてしまったのである。
「では、教主。いただいてまいります」
「自らを囮にして手に入れた獲物だ。せいぜい苦労に報いてもらうのだな」
「おっしゃられるまでもなく」
言うなり掴んでいた瞬の腕を力任せに引き、己れの胸に倒れ込んできたその身体をもう一方の腕で抱きとめて、ミッドガルドは、その場にいる他の存在を無視して、臆面もなく瞬の唇を奪った。

(え……?)
他人と唇を重ねること自体、瞬は、それが初めての体験だった。
どう反応すればいいのか──自分の口腔に忍び入ってくるミッドガルドから、どうすれば逃れられるのか──すら、瞬にはわからなかった。
瞬の無反応に苛立ったように、更に彼の獲物の舌を捕まえようと追いかけてくるミッドガルドの動きに、瞬は初めて不快を感じ、その腕から逃れようとして身じろいだのである。
こんな行為を為すことを、氷河は今まで自分に望み、氷河を氷の大地に奪われないためになら、それを受け入れてもいいと、自分は一瞬でも考えていたのだろうか。
瞬は、勝気に細い眉を、いびつに歪めた。

長く深い一方的な口付けをふいに途切れさせ、ミッドガルドが、瞬の嫌悪に満ちた表情をあざけるように見降ろしてくる。
「……多分、おまえはそういう顔をするだろうと思い、それを怖れて、キグナスはおまえに指一本触れることができなかったんだ」
「氷河……なに言って……」
「ただ一つの欲しいもの──。それを、キグナスはいつも手をこまねいて見ていたんだ。手に入れる前から失うことを怖れて」
「……」

ミッドガルドの言葉に、瞬は目を見開いた。
力の加減もせずに今自分の腕を掴んでいる男は、いったい誰なのだろう──と、思う。
髪も頬も唇も腕も肩も、その胸さえも、瞬の見知っている大事な仲間のものだった。
それは聞きようによっては恋の告白といえるもので、だが、それが氷河の唇が作った言葉だとは、瞬にはどうしても思うことができなかったのである。
どこかが違う。
心のどこかをドルバルに支配されている。
否、解放されてしまった──?

その男は、氷河とは違う瞳の色をしていた。
氷のような瞳。
氷河に似ている。
確かに氷河の瞳には、こんな色も混じっていた──ように思う。
だが氷河は、これほどまでに射るように刺すように、まっすぐ瞬を見詰めたことは、これまでただの一度もなかった。
何かが違う──と思い、だが、ミッドガルドのその視線は──瞬だけを映すその瞳は、瞬の望んでいたものに限りないほど似かよっていた。
グレイの勝った蒼──。

(望んでいた……? こんな氷河を……?)
氷河を変えてしまったドルバルを、瞬はちらりと盗み見た。
ドルバルの視線に会った途端に微かな目眩いを感じ、瞬は彼から視線を逸らした。
そして、瞬きすら忘れたように無言で己れを射すくめるミッドガルドの瞳の力に屈したように、瞬の身体からは力が抜けていき、そのまま瞬はその場に崩れ落ちた。

シベリアに帰っていた氷河の行方が分からなくなったという連絡を沙織たちが受けたのは、三日前のことだった。
北欧の神オーディーンの地上代行者であるドルバルの動きに不穏なものを感じると言う沙織に従って、瞬たちはドルバルの居城ヴァルハラ宮に足を運んだ。
キグナスの聖闘士など知らぬ存ぜぬで通していたドルバルが、氷河を捜すためヴァルハラ宮の近くの館に逗留していた 沙織たちに、一転、彼をヴァルハラ宮に捕えているという報を知らせてきたのは、おそらく、アテナとその聖闘士たちを無抵抗のまま捕えるためだったのだろう。
半ば人質を取られた形でヴァルハラ宮に赴いた瞬たちの前に現れた氷河は、しかし、人質どころか、自らをドルバルのゴッドウォーリア・ミッドガルドだと宣言したのである。

なんらかの方法で、氷河がドルバルに操られているのは明白な事実だった。
氷河は──ミッドガルドは、アテナよりもドルバルの方にこそ、より強大な力があり、彼こそがアテナに代わってこの地上を支配するに相ふさわしい人間と、瞬たちの前で言い切ったのである。
己れの望むことに忠実に従うことこそ正であり、正義の平和のと大層な大義名分を掲げてそれを抑えることは愚かな所行だ、と。

「そこまで ものが見えるようになったというのに、望むものがただ一人の人間──しかも、私に従う以前から手に入れようと思えば たやすく手に入れることのできた者とはな。アテナの唱える正義と平和に追従する者共は、よほど己れを殺して生きているとみえる」
ドルバルの言葉にも、望むものを手に入れたミッドガルドは、薄く笑っただけだった。






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