十字軍本営の移動は、その日、夜になっても終わらなかった。
移動――というより、昨日の殺戮の後始末が終わらなかったのである。
二万からの領民の死体を城壁外に運び出すのに、十字軍兵士たちは、おそらく殺す時の倍以上の時間を要した。
今、シュンが感情を失った人形でいることは、むしろシュンのためによかったのかもしれないと、その夜、シュンの隣室の寝台に横になってからユーグは思った。
(あの有り様は、とてもシュンには見せられない…)
騎士のみならず女子供の死体が次から次へと城壁の外に運び出されていく様を思い出し、ユーグは喉の奥に苦いものを感じた。
領地のため、信仰のため、名を上げるため――十字軍に参加した騎士や兵たちの目的はそれぞれであろうが、この虐殺は本当に神の望むことなのかと、大した信仰心を持ち合わせていないユーグでさえ、疑問に思う。
神の代理人たる法王や、その周囲にたむろする枢機卿たちの腐敗ぶりを知っているだけになおさら、ユーグには神の意図するところが理解できなかった。
(そのために、あんな小さな子供が自分を失う……。十字軍さえやってこなければ、南部フランス屈指の名門トランカヴェル家の一員として、平和な日々を送れていただろうに……)
本当にそうだったのかは、レーモン・ロジェの苦悩を知っているだけに疑わしいところがないでもなかったが、それでもこれほどの絶望がシュンを襲うことはなかったのではないだろうか。
ユーグはそう思わざるをえなかった。
そんなことを考えて、ユーグは、昨日とは全く違う意味で眠れぬ夜を過ごしていた。
だから気付いたのである。
城壁内が夜の静寂に包まれた中で、微かに聞こえてきた扉の軋む音に。
ユーグは慌てて寝台を飛び降りた。
続き部屋になっている、この城の主だった男の部屋に飛び込むと、案の定シュンの姿がない。
(出歩くなと、あれほど言っておいたのに…!)
ユーグは急いで、だが、物音をたてないように注意して、廊下に出た。
この広い城で、城内を熟知しているシュンをどうやって捜せばいいのかと迷ったのは一瞬だった。
ユーグは脇目も振らずに、彼が初めてシュンを見た、あの礼拝室に向かったのである。
そして、その場に白い亡霊のようなシュンの姿を見い出して、安堵の息を洩らした。
宗教画も彫像もない、十字架があるだけの小さな聖域。
だが、床や壁の最高級の大理石を見ると、レーモン・ロジェが、弟のための質素な・・・礼拝室を作るのにどれほどの金をかけたのかが容易に見てとれる。
シュンは銀色の月光が射し込む祭壇の前に跪き、神の許しを乞う罪人のように、一心に祈りを捧げていた。
「正気に……戻ったのか…?」
囁くような声も、この礼拝室では微かな反響がある。
夜の静寂の中では尚更だった。
ユーグの声にゆっくりと振り向いたシュンの顔は――天使のそれでも、カタリ派完徳者のそれでもなかった。
誘惑者の――おそらく本人の自覚が全く無い誘惑者の――眼差しが、月の光の中にあった。
内心で軽く舌打ちをして、ユーグはシュンの腕を掴み、彼を立ち上がらせた。
「おまえらカタリ派の連中は、祈りを捧げるのに場所は選ばないはずだろう。部屋に戻れ。見張りの兵に見付かったらどうなると思――」
「いや!」
ユーグの声を遮ったシュンの拒絶は、鋭く激しかった。
それはすぐに、怯えを含んだ力無いものに変わったが。
「い……いや……あの部屋はいや……」
小刻みに震えるシュンの肩が、ユーグを惑わせた。
「何を言っている。おまえの兄の部屋だぞ。伯父殿はおまえのために、城内で一番いい部屋を確保してくれたんだ」
自分の腕を掴みあげているユーグの手から逃れようともせず、シュンはユーグから顔を背けている。
ユーグは、闇に怯える子供をあやすように声を和らげた。
「……死んだ者の夢でも見たのか」
「……」
「夢でも幽霊でも怖いはずはないだろう。愛しの兄君の姿なら」
それは他意のない言葉だったのだが、シュンは刃物で切り付けられた子供のように、傷を負った視線をユーグに向けてきた。
「――ここにいさせて。どこにも逃げません。あの部屋は嫌です」
「……」
この青みがかった大理石の礼拝室は、コンタル城の東の塔の最上階にあり、今は亡きトランカヴェル家当主の私室は西の棟の地上階にある部屋だった。
行き来するには東西の棟を結ぶ廊下を使わなければならない。
今夜は本営移動の混乱と多忙のために見張りも立たなかったようだが、明日からはそうもいかないだろう。
ユーグはシュンの我儘を聞きいれるわけにはいなかった。
「あの部屋は食事を運ぶのにも便利だし、浴室も付いている。ここは――」
隠れて過ごすには不都合なのだというユーグの説得を、シュンは聞く気もないようだった。
「あの部屋はいや! あの机も椅子も寝台も見たくない!」
「……」
誰よりもシュンを慈しんでくれた兄の思い出に繋がるものを、シュンがここまで激しく拒絶する訳が、ユーグにはわからなかった。
思い当たることといえば、ただ一つだけ、である。






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