その夜、ユーグが部屋に戻ったのは、ほとんど深夜近くなってからだった。
聖戦という名の虐殺に加わるのにはどうしても気が乗らなかったユーグは、代わりに、カバレ城塞の攻囲方法を他の騎士たちに講じることで、伯父の体面保持にこれ務めてきたのである。
元トランカヴェル家当主の私室に戻って灯りを燈したユーグの目が最初に向くのは、高価なビザンチンの絨毯でもなければ、トランカヴェル家の家紋を宝石で飾りたてたタペストリーでもなく、隣室に続く樫の木の扉だった。
その扉を開けるか否かを、ユーグはしばらく迷っていた。
シュンがもう眠ってしまっているのなら、顔を見るくらいのことは許されるような気もする。
しかし、そんなことをしたら、寝顔を見るだけで済むかどうかも怪しい。
シュンが就寝していないとしたら、顔は出さない方が無難だろうが、そうしたらそうしたで、かえって隣室のシュンに疑心暗鬼を生じさせることにはならないだろうか。
いつ獣が乱入してくるかという不安で、シュンが朝まで震えて過ごすようなことになったら、それは気の毒というものである。
それこそ、初恋の相手に話しかける言葉を探しあぐねている五、六歳の子供のような逡巡を繰り返したあげく、ユーグは素晴らしい大義名分を思いついた。
眠っているかどうか以前に、まず、シュンが隣室にいるかどうかを確認しなければならない。
隣室への扉には鍵が掛かっていないのだから――という大義名分である。
ユーグは、それまで外すのも忘れていた肩布を外して椅子に投げ置くと、シュンのいる部屋に続く扉に足を向け、そして、その足を止めた。
彼が扉に手を掛けるより先に、勝手に扉の方が開いてしまったのである。
そこに、シュンが立っていた。
「シュン……」
蝋燭の炎が揺らめいて、シュンの衣服や身体に微妙な影を落としている。
「ユーグ・ド・モンフォール。今夜はもう戻ってこないのかと思いました」
そう告げるシュンの様子が、昨日までの――否、今朝までの様子と何かどこかが違う。
(シュン……?)
ユーグは、シュンに妙な違和感を覚えた。
「教えてほしいことがあるのですが」
シュンの唇は艶やかに濡れていて、その声音はひどく大人びていた。
つい半日前ユーグに『大貴族の坊や』と侮辱されて悔し涙を流していた子供にはとても見えない。
「何だ」
ユーグは先程投げ置いた肩布を取りあげる振りをして、シュンから視線を逸らした。
シュンのまとっている空気の変化の訳に、考えを巡らせるために。
「伯父君は、次はどこの町を攻めるのです」
「そんなことを教えられるか」
「何故? 僕はこの部屋から出られません。秘密が洩れる心配はないではありませんか」
「だから知っても何もできない」
ずっとシュンから視線を外しているわけにもいかず、ユーグは仕方なく顔をあげた。
シュンは、いつのまにか腕を伸ばせば指先が届くほどの距離にまで、ユーグに近付いてきていた。
避けられ逃げられるのならわかる。それならわかるのだ。
「――祈ることができます」
そう言ってユーグを見上げるシュンの、何が変わったわけでもない。
瞳も唇も髪も頬も肩も指も――今朝までのそれと変わりはない。
「神にか? おまえはまだ――」
「信じています。僕がひとり、罪を犯して見放されただけ。でも、他の信者や兄の領民の無事を祈ることくらい、神は許してくださるでしょう」
穏やかな口振りで、ごく自然に、シュンはユーグの言葉を遮った。
言っていることも決して奇妙ではない。
『この天使のように浄らかな面差しの哀れな子供は、自分の不幸にも関わらず、それでも神の慈悲を信じているのだ』と、感動してもいいような言葉だった。
シュンはもう、ユーグが手を伸ばすまでもなく捕まえられる場所に立っていた。
その肩が小刻みに震えているのが見てとれるほど近くに。
「それくらい――それくらいは、無力な子供に教えてくださってもいいでしょう。あなたは僕を――あ……」
蝋燭の作る炎の影が、シュンの瞳の中で切なげに揺れる。
「愛しているとおっしゃったでしょう……!」
その瞳は、まるで恋人の口付けを待つ少女のように潤んでいた。
シュンが以前から――無垢だった昨夜以前も――ただそこにいるだけで人を惑わしてしまう存在だったことを知らなかったら、ユーグは、自分がシュンに誘惑されているのだと思い込んでしまっていただろう。
知っていても――そう思ってしまいたいような眼差しだった。
実際、ユーグは、自分自身を訝ってさえいた。
これほど美しい生き物が、吐息も交わるほど側にいて、頼りなげに肩を震わせ、すがるような瞳で『助けてくれ』と言っているのである。
抱きしめてしまうのが当然ではないか。抱きしめずにいられる方がどうかしている――。
だが、ユーグはそうしなかった。
シュンの美しさに無感動だったわけではない。
むしろ、ユーグの心臓は恐ろしく強く波打っていた。
ただやはり――今朝までのシュンと、今自分の目の前にいるシュンとは何かが違っているような気がしたのだ。
「それとこれとは話が別だ。さっさと部屋に戻れ。でないと俺はまた――」
「また……?」
言葉尻を捉えて、シュンが反問してくる。
シュンはこんな話し方をする子だったろうか――? 思い出せない自分に、ユーグは苛立った。
そして、自分の内の苛立ちをぶつけるように、ユーグは声を荒げたのである。
「俺はまた、おまえに何をするかわから――」
「あなたの望むようにして」
「――」
一瞬、ユーグは、シュンが何を言ったのか理解することができなかった。
言葉の意味がわかってから、ぎょっとした。
「は……おまえは何を……」
そして、ユーグが咄嗟に選びとった行動は、シュンの言葉を笑ってジョークにするという、お粗末極まりないものだった。
しかし、シュンは真顔でユーグを見詰めている。
「ずっと、あなたが戻ってきてくれるのを待っていたんです。あなたのことを考えるだけで身体が震えるの。ひとりでいるのがとても辛くて……」
「……」
蝋燭の炎は相変わらずちらちらと揺らめいて、シュンの眼差しに妖しい影を落としている。
その表情は、確かに、男を欲しがっている者のそれに見えないこともなかった。
だが、いくら世間知らずの子供が急に外界を知ったからといって、人はこれほど急激に変わるものだろうか。
衝撃的ではあったのだろう。初めて知った男の欲望の真実の姿や、それを受け入れてしまった自分自身の変容は。
ユーグですら、あれほどの陶酔感や一体感を味わったのは初めてだった。
「それとも、一度交わったら、もう僕から興味は失せてしまったの?」
僅かに苦しげに眉根を寄せるシュンは、昨日までの純白の天使とは違う魅力をたたえている。
いずれにしても、壮絶に美しかった。
「そんなことないって言ってください。あなたにそう言ってもらえなかったら、僕、これからいったいどうすればいいのか……」
心細げに嘆いてみせながら、シュンは確信しているようだった。
昨夜、あれほど夢中になって自分を貪っていた男に、この誘惑を退けられるはずがない、と。
いつまでも無言で無反応な男に焦れたのか、シュンはユーグの側を離れると、昨夜あれほど嫌がっていた亡き兄の寝台にふわりと腰を降ろした。
深緑のビロードのカバーが掛けられた寝台に、純白の天使が座り、その姿を蝋燭の炎が幻のように揺らめかせる。
ユーグは微かな目眩いを覚えた。
「僕はもう罪を犯したんだもの。それが二度になろうが三度になろうが、神はお気になさらないでしょう」
「馬鹿なことを……トランカヴェル家の御曹司がこんな売女のような――」
「あなたのせいです! 早く来て!」
「シュン、俺はおまえにこんな真似をさせるわけには――」
ユーグは、シュンを、その魔力の及んだ空間から引き離すつもりで、シュンの腕を掴んだ。そのはずだった。
だが、シュンの力では到底引きはがされるはずのないユーグの手は、いともたやすくシュンの白い指に振りほどかれた。
そのまま、ユーグの首に両の腕を絡ませて、シュンがユーグの唇に唇を押しあてる。
幼い、触れるだけの短いキスのあと、シュンはユーグの言葉を封じるように、なお一層強くユーグにしがみついた。
「僕がどんな思いであなたを待っていたか…… 一日が長くて、太陽の進むのが遅くて……」
シュンの腕がユーグの首筋に触れ、まとわりつくような吐息が耳許で揺れる。
そうして、ユーグの中の醒めた部分は、昨夜覚えたばかりのシュンの匂いによって、他愛なく溶かされてしまったのだった。






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