「シュン……!」 堰が切れるともう、ユーグは奔流のようなものだった。 なぎ払うようにシュンの身体を寝台の中央に引き倒すなり、身体を重ね、唇を貪る。 首筋を愛撫する手で胸をはだけさせ、そのままその手を腹部へと降ろしていく。 大して時をおかずに、ユーグは再びシュンを自分の意のままにできていたはずだった。 ユーグに抱きしめられたシュンが、小さく、だが鋭い、官能の声ではない声を洩らしてさえいなければ。 「痛いっ……!」 それはまるで指に刺繍針でも刺したかのように微かな叫びだった。 「シュン……?」 尋ねられてもシュンは何も答えなかったが、叫び声の訳はすぐにわかった。 シュンの右胸の端に、微かな引っ掻き傷ができていたのである。 それが、自分の胸の部分に当てられている鎖帷子のせいだと気付いて、ユーグは舌打ちをした。 いつもなら、こんな仰々しいものは身に着けることはないのである。 伯父と違って暗殺の的になることも考えにくいし、何よりラングドックに来てから、ユーグはほとんど闘いの場に足を踏み入れてはいなかった。 今日はたまたま頭を冷やすために物見台に立ったので、用心のために胸の部分だけを覆う簡単な鎖帷子を身に着けていたのだ。 滑らかな鉄製のそれは、ユーグの肌には絹と大差ない代物だったが、シュンの繊細な肌には鋭い刃物のようなものだったらしい。 「平気です。やめないで……」 肩の留め具を外そうとしたユーグの手を、シュンの指が押しとどめる。 そう言われても、口付けの跡こそ似つかわしいシュンの肌に、こんな無粋なもので傷をつけるわけにはいかないではないか。 ユーグに止めても聞く気のないことを知ったシュンが、目許だけで微かに微笑する。 「僕が……外してあげます……」 シュンは囁くようにそう言って、自分を組み敷いている男の右肩に、両の腕を伸ばした。が、その体勢で鎖帷子を外すのには少々難がある。 「ああ、これ、どうなっているんでしょう。ユーグ、ちょっと横になってくれます?」 ユーグは、早くシュンが欲しくて気が急いていた。 ことさらゆっくりとしたシュンの動作に焦りすら覚えたが、白い指のなまめかしさに諭されるように、ユーグはシュンの言葉に従った。 今度はシュンの方が身体を起こし、ユーグを見降ろす恰好になる。シュンは、しかし、まるでユーグを焦らすように、肩の留め具に手を伸ばす気配を見せなかった。代わりに、その手が、鎖帷子の上からユーグの胸をゆっくりとなぞり始める。 「次の戦闘はまだ先なんでしょう? こんなもの身に着けることないのに……」 片方の胸を露わにしたシュンの姿はぞくぞくするほど淫蕩で、その腕や指の白い蛇のような動きを見ているだけで、ユーグの昂りは激しくなった。 「そんなに急かさないで」 ユーグの燃えるような視線を身体に受けとめながら、シュンがユーグの昂りをからかうように、ユーグの上に馬乗りになる。 シュンのその大胆な所作を、ユーグは信じられないものを見る思いで凝視し続けていたのである。 このしなやかな獣は、つい今朝方までうちひしがれた天使だったはずだ。 それが今は――。 と思った時。 ユーグは自分の喉許に、鋭い切っ先が突きつけられているのを知った。 そして、自分が天使に組み敷かれていることに。 「動かないで!」 シュンは、低く、だが、刃物のような声でユーグに命じた。 シュンの手には、いったいどこから手に入れたのか、青い宝石の嵌め込まれた銀色の短剣がしっかりと握られている。 「僕を従者に装わせて、ナルボンヌ門まで連れていきなさい!」 おそらくレーモン・ロジェの部屋に、トランカヴェル家の者しか知らない隠し戸棚でもあったのだろう。 シュンの手に握られている短剣は、武器というより宝飾品だった。 それでも、人を刺そうと思って刺せぬものでもない。 ユーグは瞳を見開いた。 「馬鹿なことを。こんな玩具で俺を殺せるとでも――」 「殺せます! このまま喉を突けばいいだけ!」 シュンには先程までの妖艶さはかけらもなかった。 必死な目をして、唇を堅く引き結んでいる。 天使は天使でも、魔王ルシファーを天の国から駆逐する闘いの天使だった。 この見事な逆転劇に驚いて――否、ユーグは自分に呆れたのだ。 自分に呆れて、ユーグは声をあげて笑い出した。 「ただの脅しじゃないんです。何がおかしいの!」 この現状の何がおかしくないとシュンは言うのだろう。 欧州一とも謳われた騎士が、一〇以上も歳下の子供に組み敷かれ、あまつさえ喉元に刃物を突きつけられて動けずにいるのである。 止めようと思って止められる笑いではない。 「いや、あまりの豹変振りに、昨夜のあれがそれほど良かったのかと自信を持ってしまった自分がおかしくて」 「ええ、本当に愚かですね。笑うのをやめて!」 「そうしたいのは山々だが、しかし、こうくるとは――。あのまま情欲の虜になるような子供ではないだろうと期待してはいたんだが……。どこで覚えたんだ? 男を油断させるこんなやり方を」 「……」 この状況で笑っていられるユーグが、シュンには理解できなかった。 逃げ場のないところまで追い詰めたはずなのに、ユーグには本当に、喉に触れている切っ先から逃れる道が見えているのかと、不安さえ覚える。 「笑うのをやめなさい! 完徳者としての資格を失ったとはいえ、僕にだって、仲間のために何かをすることぐらいできるんです!」 「いや、実に嬉しくて」 ユーグの逃げ道は、思いがけないところにあった。 彼は笑いながら、シュンが突きつけている刃物など目に入っていないかのように、上体を起こしたのである。 「あ……!」 手にしていた短刀の切っ先がユーグの喉元に突き刺さるのを恐れて、シュンが反射的に手元に短刀を引く。 それでも微かにユーグの喉に描かれることになった細い真紅の線に、シュンの頬は青ざめた。 そんな小さな傷でも、自分の手が人を傷付けたという事実に呆然としているシュンの手首を、ユーグが軽く掴みあげる。 それだけで、短剣はシュンの手から敷き布の上に頼りなく滑り落ちた。 ユーグが剣を突きつけられても笑っていられたのは、こうなることを知っていたからなのだと、シュンには今になってわかった。 ユーグは、この非力な世間知らずの子供には人を傷付けることすらできないと見越していたのだ、と。 「ベツリアのユディットは、敵将ホロフェルネスを殺すためにホロフェルネスと寝て、その情欲果てた時を見計らって首を切り落としたそうだぞ」 動くことができずにいるシュンの手首を掴みあげ、ユーグは相変わらず楽しそうで、まるでシュンをからかうような口調である。 「わ……我々は旧約聖書を認めていない! そんな作り話!」 「しかし、そうしていたら、おまえは間違いなく俺を殺せていただろう」 「こ……殺す……?」 シュンは、ユーグが剣での脅威に屈しないという状況を想定していなかった。 というより、シュンは、自分が誰かを傷付ける場面など考えもせず、ただこの城塞を脱出する方法や脱出した後のことしか考えていなかったのである。 「こ……殺すつもりなんて……」 「なかったのか?」 ユーグがまた、からかうように尋ねてくる。 喉の奥で楽しそうに笑ってから、彼は、敵将に馬乗りにさせられたままのシュンの肩に唇を押し当てた。 「こ……殺すつもりでした! 当然でしょう! あなたは、兄や罪のない多くの領民を殺した残酷な殺人者なんですから!」 自分がこの男の唇から逃れようとしないのは、僅かな身じろぎさえ許してくれないこの男の腕から逃れることを徒労と思っているからなのか、それとも、この牢獄から出るために人を武器で脅すなどという恐ろしいことを考えた自分自身に竦んでしまったためなのか――シュンは、自分の肩から胸へと移っていくユーグの唇の感触に気を失いそうになりながら、懸命にそんなことを考えていた。 「楽しませてくれる天使だ」 ユーグが、まとわりつく程度にシュンの身体を覆っていた絹の上衣を、シュンの背に腕をまわして一気に引きずり降ろす。 シュンの細い肢体が露わになり、白い蝋燭の灯りが、その肌を一層白く映した。 だが、もう、蝋燭の炎は妖しげな揺らめきをやめてしまっている。 今、ユーグの上で羞恥と恐れに耐えているのは、今朝までのシュンと全く同じシュンだった。 いや、全く同じではなかっただろう。 男の情欲を利用して、相手を意のままにしようなどという考えは、少なくとも昨日までのシュンには思いつきもしないことであったろうから。 ユーグがこの事態を嬉しく感じていたのは事実だった。 まさかこんな手段に出るとは思ってもいなかったが、シュンは実にたくましく生きる目的と意欲とを取り戻し、その目的を達成するための努力を開始してくれたものらしい。 肌の上から唇で触れるシュンの心臓は、力強く確かな鼓動をユーグに知らせてくれている。 「やめて下さい! 一度だけでは飽き足らず、また僕を侮辱する気ですかっ!」 シュンの非難の言葉すら、ユーグの耳には心地良く響いた。 「おまえも悦んでいたはずだ」 「誰が! 誰があんな……あん……っ!」 ユーグの右手がシュンの腰の線をなぞる。 「悦んでいた」 甘い溜め息を洩らしそうになる唇を噛みしめて、シュンは首を左右に振った。 「あんな……誰が、あんな獣のようなこと……!」 言葉では抗い続けるシュンは、既にユーグの愛撫に崩れ落ちそうになっていた。 「おまえは人間と獣の違いを知っているか」 「あ……魂が……獣には神の作った魂が備わっていないんです……」 喘ぎを必死に飲み込もうとして、シュンの胸は大きく波打っていた。 浅ましい喘ぎ声をあげずに済むのなら、異教徒の祈りの言葉を唱える方がましだと思っているのか、シュンが素直に――だが、もがくように答える。 ユーグは唇の端を歪め、 「だから獣は同族で争ったり憎み合ったりしないのかもしれないな……」 と、低く呟いた。 それはシュンの耳には届いていなかっただろう。 ユーグも、シュンに聞かせようとして言ったのではなかった。 「そうだな……。だが、もう一つあるんだ」 手を離したらそのまま崩れ落ちてしまうだろうシュンの身体を抱き寄せて、ユーグはその顔を覗き込み、瞼をくすぐるようなキスをした。 シュンの腰を引き寄せながら、潤んだ瞳に映る自分自身を確かめる。 「人間は、互いの顔を突き合わせて身体を交わらせる唯一の動物だ。こんなふうに!」 言葉が終わる前に、シュンは、ユーグのいきり立った欲望の上に座らされ貫かれていた。 「ああああ……っ !! 」 喘ぎどころではない悲鳴が、シュンの喉を突いて出る。 ユーグの身体を引きはがそうとして伸ばした手はユーグに掴み取られ、その場所から逃れようとする膝には力が入らない。 この“人間らしい”交わりから逃れようと必死になってあがくシュンの身体を両手で支え、ユーグはその表情を見守っていた。 彼の望んでいた変化は、すぐに現れ始めた。 最初は、その唇と瞼に。 そして、接合点に。 やがてその変化は、シュンの全身を飲み込んでいった。 |