後悔がないというわけではなかった。
だが、シュンを自由にしてやらなければ、もっと深い後悔を味わうことになっていただろうことはわかっていた。
ユーグは、だから、自分の胸にできた大きな空洞を耐えるための努力をしたのである。
昼間は無理に仕事を見付けて自分を多忙な状態に追い込み、何とか気を紛らわすこともできたが、夜になるとそれもできない。
身体を酷使し、疲れきって寝台に倒れ込んだはずなのに、必ずどこからかシュンの幻が現れてユーグを悩ませるのだ。
シュンは天上の天使のように浄らかな微笑を浮かべている時もあれば、妖しいほどなまめかしくユーグを誘う時もあった。
いずれにしても、ユーグはシュンを抱きしめようとして腕を伸ばし、だがそうすることができずに、その手は宙を掴む。一晩のうちに何度も息を荒ぶらせながら寝台の上に身体を撥ね起こす夜が続いて、ユーグの身体はいい加減まいり始めていた。
二、三日不眠不休で戦場を駆けまわっても疲れを感じたことのない頑健な身体が、寝台に横になっても眠れないというだけのことで、悲鳴をあげる。眠りさえすればいいことはわかっているのに、横になって目を閉じた途端にシュンの誘惑が始まる。
そんな夜が五日めにもなると、ユーグは開き直って、睡眠を諦めるようになってしまったのである。
こういう時に神への祈りは有効なのだろうかと、柄にもない信仰心を起こしてシュンの礼拝室に向かったのは、だから、夜の長さを持て余してのことだった。
そして、十字架以外は何もないはずの礼拝室にシュンの姿を見付けた時、ユーグは絶望的な気分になった。
シュンをこの手に抱きたいという思いは、神にも打ち消すことができないのかと、ユーグは神の無力に腹立たしささえ覚えたのである。
「ユーグ! よかった! もしいらしてくださらなかったら、僕、今夜はここで夜明かしかと思っていました……!」
妙にはっきりした輪郭を持ったシュンの幻が、そう言いながら近付いてくる。
どうせ触れることはできないのだと諦観の域に達していたはずなのに、それでも手を伸ばしてしまうのは、哀しい男のさがだった。
そして。
ユーグは触れてしまったのである。
触れることができてしまったのだった。
シュンの細い首筋はほのかに暖かく、はっきりと血の脈動を感じ取ることができた。
「シュン……おまえ、どうして……」
幻ではない生身のシュンが、別れた時と全く同じ――否、これまで見たこともないほど明るい瞳をして、ユーグの前に立っていた。
「通路に見張りがいて、兄上の部屋まで行くことができなかったんです。抜け道を通って入ってこれるのはここまでなので……。よかった。ユーグが来てくれて」
「あ……」
屈託のない笑顔を向けてくるシュンを、ユーグはすぐにでも抱きしめたかった。
俺の不眠の責任をとれと言って、その肌を貪り食らってやりたかった。
だが、そんなことができるわけがない。
そんなことをしたら、断腸の思いでシュンをこの城塞から解き放った意味がないではないか。
「シュン! 俺が何のためにおまえをここから出してやったと思っているんだ!」
心と裏腹の言葉を口にするのがこれほど辛いと思ったことはない。
ユーグの怒声を、だが、シュンは穏やかに微笑んで受けとめた。
「その訳がわかったような気がしたので、戻ってきました」
少し恥ずかしそうに睫毛を伏せて、それでもはっきりした発音でシュンはそう言った。
「十字軍に抵抗している町々と連絡をつける道は確保してきました。ここにいれば、あなたから得た十字軍の情報を皆に伝えることもできますし」
「ほ……本格的に伯父殿を裏切らせるつもりか? 俺に」
「あなた次第です」
「……」
澱みなく答えるシュンのまっすぐな視線に、ユーグは頭を抱え込みたくなってしまったのである。
たった数日――ユーグがシュンの幻に悩まされて鬱々と過ごしていた、たった数日の間に、この天使はなんと逞しくなってしまったのだろう。
そして、なんと美しく生き生きと輝くようになってしまったのだろう。
シュンは、少し不安そうに、苦悩の騎士を見上げている。
ユーグは――ユーグは、無条件で降伏するしか術がなかった。
この天使が側にいてくれないと、生きていけないのだ。仕方がないではないか。
「――どうなっても知らんぞ。俺もおまえも、待っているのは破滅かもしれん」
「やれるところまでやってみます」
それは自棄ではなく、生きるための決意だった。
ユーグの望む通りのシュンになって、シュンはユーグの許に帰ってきてくれたのだ。
「本当にどうなっても知らんぞ」
「はい」
シュンが頷くのを確かめて、ユーグは、夢にまで見たシュンの身体を抱きしめた。
一瞬のためらいもなく、シュンの腕がユーグの背にまわされる。
「シュン……!」
一度抱きしめてしまったら、もう躊躇など感じている余裕はなかった。
本当に、本当に、魂の真核から求めていたのだ。
まるで引き倒すようにシュンの身体を床に横たえ、何故人間は衣服などという面倒なものを発明したのだと言わんばかりの勢いで、シュンの服を引きおろす。
露わになったシュンの肌に噛みつくような口付けをしながら、ユーグはシュンの芯を煽った。
シュンの身体はすぐに熱を帯び、波打ち始める。
すすり泣くようなシュンの喘ぎが礼拝室に満ちてくるのに、長い時間はかからなかった。
初めて互いの情熱を知ったあの時と同じ、十字架以外に何もない礼拝室と、青みがかった大理石の床。
月の光が二人を照らし出している。
あの時と違うのは、窓の外の月が少し痩せたことと、シュンが自ら身体を開いたこと、そして、シュンが求められるまでもなく、自分を抱いている男の名を口にしたことだけだった。
「ユーグ……ユーグ……」
柔軟でしなやかな美しい獣。
シュンは、閉じ込められていた鳥籠から解き放たれた白い鳥のように伸びやかで能動的だった。
彼はユーグの欲望に手を添えて、自らの内に招き入れさえした。
「ああ……!」
そして、ユーグを迎え入れる時の声も、完全に歓びだけのそれだった。
「ユーグ……ユーグ……ああ、もっと………もっと奥まで来て……!」
「シュン……」
「いい……ああ、いい……あっ……ああ、平気……僕……だから……」
苦痛をももたらすはずのユーグの楔を全身で受けとめ、ユーグの重みで胸を抑えつけられても、激しい律動で繰り返し肩を床に押しつけられても、シュンの頬は青ざめることなく薔薇色に上気したままだった。
「僕、汚れてないの……僕、穢されてなんかいない……!」
喘ぎの合間にうわ言のように繰り返す言葉も、罪の許しを乞うているのではなく、まるで神に訴えかけているようだった。
ユーグの欲望が体内に染み込んでいく時を迎えても、シュンには哀しみも呵責もなく、ただ充足と幸福の表情を浮かべるだけだった。
絶頂が終わってもまだ激しい歓びのために震えている自分の中心を恥じらう様子を見せはしたが、そこに後悔や嘆きの色はない。
「……シュン……?」
脱力感の消散に伴って、再び強く熱くなっていくユーグの視線を全身に感じる。
ユーグが何を求めているのかを察して、シュンの瞳もまた熱を帯び潤み始めた。






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