氷河は迷うことなく、そこに向かった。 初めて二人が出会った場所ではなく、二人が幾度も愛を交わした部屋でもなく、飛べない天使が飛翔しようとしたところ――。 あの亡霊が、どれほどその場所に悲憤の念を抱いていたかを、氷河は息苦しくなるほどに知っていた。 「瞬 !! 」 夢で見たその塔は、数百年の年月を経た今も、カルカソンヌの悲劇を象徴するかのように白光の中に建っていた。 20メートルはあろうかという塔の上に、まるで紙でできた人形のように揺れる瞬の姿がある。 その傍らには、あの金髪の十字軍騎士が、雛を守る親鳥のように寄り添っていた。 「瞬――っ !! 」 自分が聖闘士などという履歴書にも書けない職業を生業にしていることを、今日ほど有り難く思ったことはない。 氷河は常人には到底発揮できない跳躍力を駆使して、塔の上に飛びあがった。 「瞬 !! 」 遠慮会釈もなく亡霊の身体を突き抜けて瞬の身体を捕らえ、塔の端から安全な場所へと引き戻す。 自分の手の中に取り戻した瞬を、氷河は渾身の力で抱きしめた。 死んでも離す気はなかった。 亡霊は、昼間陽光の下で見た時と同じように、無表情に二人を視界に映している――ように見えた。 ここでまたあの時と同じように身体を乗っ取られるようなことになったら今度こそ瞬を連れ去られてしまう――氷河は全身を緊張させ、自分と同じ顔をした亡霊に強い視線を据えたのである。 亡霊の無念は痛いほどにわかっていたが、瞬だけは渡せないのだ。 ここで瞬を亡霊の手になど渡したら、今度は亡霊ではなく自分の方が魂の半分を失うことになる。 「や……」 その時だった。 氷河の腕の中にいた瞬が、思いきり彼の足を踏みつけたのは。 「やだっ !! どーして氷河は、いつもいつもすぐ調子に乗るんですかっ !! こんなことしていいなんて、僕、いつ言ったのっ !! 」 「しゅ……瞬……?」 身じろぎもできないほどきつく自分に絡みついている氷河の腕を、瞬は、それこそ渾身の力で振り払った。 「瞬、おまえ……」 やっとの思いで氷河の腕から逃れた瞬は、真っ赤な顔をして、金髪の暴走男を睨みつけている。 氷河は、全く訳がわからずに、目を白黒させるばかりだった。 気が付くと、亡霊の姿は既にない。 塔の上にいるのは、これ以上ないくらい赤面した瞬と、少々間抜けな顔をした氷の聖闘士だけだった。 「し……瞬、おまえ、亡霊に誘い出されてここに来たんじゃ……」 真っ赤な顔をした瞬に上目遣いに睨まれて、氷河はついついどもってしまった。 氷河にそう尋ねられて、瞬は少し怒りをやわらげたらしい。 少し首をかしげてから、あまり自信はなさそうに左右に首を振る。 「ううん、違う……と思う……。そうじゃなくて、僕の中にあの子が――ユーグじゃなくシュンの方がいて、僕をここに連れて来たの」 「憑依されたのか?」 「そうじゃなくて……最初から僕の中にいたみたいな……」 瞬は、自分で自分のことがよくわかっていないようだった。 だが、本当に瞬の言う通り、最初から瞬の中にシュンがいたのだとしたら、それは瞬とシュンが同じ魂からできている――シュンは瞬の前世だった、ということになるのだろうか。 そういうものを信じていない瞬には、この経験は混乱を招くもの――であるはずだった。 が、意外に瞬はさばさばした様子である。 「もしかしたら、ユーグもほんとは氷河の中にいるのかもしれないよ。あの亡霊さんはユーグの残留思念だったのだとしても」 平生の『僕は幽霊も亡霊もお化けも前世も転生も信じません!』という主張をすっかり忘れたかのように、瞬はそんなことさえ言い出した。 「それとも氷河の中から、ふらふら外に遊びに出ちゃったのかなぁ……」 瞬の恐るべき順応力に半ば呆れ半ば感嘆して絶句していた氷河は、瞬のその言葉に少しばかり力を得て、なんとか自分が言語能力を有していることを思い出した。 「なら、やっぱり、俺がおまえを抱きとめたのはいいことだったんだ。あいつはずっと、自分の手が間に合わなくてシュンを死なせてしまったことを後悔していたんだからな。俺がそうしてみせたから、満足して消えていったんだよ」 「氷河の中に?」 「あんなモノが俺の中にいてたまるか!」 憮然として言い切る氷河を見て、瞬はくすくすと忍び笑いを洩らした。 「ホテル、戻ろっか」 瞬に促されて、氷河は、やはり憮然としたまま頷いた。 塔と地上をつなぐ細い石の階段を、氷河と瞬が無言で降り始める。 もう少しで外に出るという時、ふいに口を開いたのは瞬だった。 「ねえ。あの人、あれからどうしたんだろ。あの人の伯父さんは、トゥールーズを陥落させてから、戦死しているんでしょう?」 シュンを失った後のユーグの人生。 それがどんなものだったのかが、瞬には想像もできないようだった。 氷河には容易に推察できることだったのだが。 「ふん、いずれどこかでのたれ死にでもしたんだろう」 「氷河!」 吐き出すようにそう答えた氷河を、瞬が睨みつける。 しかし、氷河には、それ以外に、ユーグのその後の人生というものが思いつかなかったのだ。 「人間はそこまで強い生き物じゃない。魂を半分失って、人が生きていけるはずがないじゃないか」 「氷河……」 悲しいことだが、事実はそうだったのかもしれない。 瞬は、氷河の言葉に納得せざるを得ないことが苦しくて、唇を噛み、俯いた。 塔を降り、二人の他誰もいない深夜の城塞の石畳の道を、二人並んで歩く。 あまりに瞬の肩が悲しそうなのに、氷河は嘆息した。 人一倍気が強いくせに、瞬は他人の不幸にあまり強くない。 自分の不幸や不運には驚くほど打たれ強いのに、それが自分以外の人間のこととなると、すぐに瞳を潤ませる。 そんな瞬だからこそ、氷河はこの気紛れな“仔猫ちゃん”を好きになったのではあるが、やはり瞬にはいつも笑っていてほしい。 悩んだ末に、氷河は話を逸らすことにした。 他にいい手も浮かばなかったのだ。 「ところで、瞬。おまえ、どう思う? カタリ派の教義」 「え……あ、二元論?」 隠すように人指し指で涙を拭い、瞬が顔をあげる。そして、瞬は無理に笑顔を作った。 「あ、そ……そうだね。身体と魂が別物かどうかってことはよくわかんないけど、でも、少なくとも身体と心は切り離せるものじゃないでしょ。善の神と悪の神がいるっていう二神論も、神が世界を支配していた中世ならともかく、現代の僕たちには馴染まない考え方だし、その二つの神様もやっぱり僕たち個人個人の中で混じり合っているものなんじゃ……ん、駄目。僕、どうしても形而下の話になっちゃう……」 軽く左右に首を振って話を中断してしまった瞬を、氷河は下目遣いかつ横目で見やった。 瞬は、瞬がいつもそうするように、わざと話の方向を逸らしているのかと、氷河は疑ったのである。 「そうじゃなくて、罪の話」 「あ、それは……。相手がどんな人だって、人を傷付けるのは良くないことだよ。心でも身体でも。けど、自分の身体や心を自分で傷付けるのも、やっぱり罪だと思う」 瞬は、シュンが大司教と自分自身の命を絶ったこと、そして、聖闘士として、これまで自分たちが為してきたことを言っているのだろう。 無理に浮かべていた瞬の笑みは、また曇ってしまった。 確かにそれはそれで重要な一大テーマだと思う。 聖闘士としてここにこうして生きている以上、その罪についての勘考を怠るのは、怠慢とも言えるだろう。 しかし、氷河が今、瞬と話したい“罪”は、それではなかったのだ。 「そうじゃなくて、もう一つあっただろう。大きな罪が」 「え?」 瞬がきょとんとして、氷河を見あげる。 春の夜の風が、瞬の髪を微かに揺らしてどこかに消えていった。 「わざととぼけているのか?」 「あ……ユーグが伯父さんを裏切ったこと?」 「そーじゃなくて」 ここまでくると、瞬のボケも、わざとなのか意識してのことなのかよくわからなくなってくる。 氷河はほとんど怒鳴るようにして、シュンの犯した大罪を口にした。 「悪魔とやらが作った肉体で交わることだっ!」 「え?」 どうやら瞬のボケは、わざとではなかったらしい。 瞬はその瞳をますますきょとんとさせて、 「それって罪なの?」 と、逆に氷河に尋ね返してきた。 この瞬から、そういう答えを貰えるとは思っていなかった氷河の方が、かえって戸惑ってしまう。 「あ、いや、そうじゃないぞ。そうじゃないが――その……あの二人の場合、自然に反することだろ」 慌てて問題を提起し直した氷河に、瞬は呆れた顔になった。 「氷河って、意外に古いタイプの人間なんだね。それこそ、中世の人みたい。ユーグは、誰もが神様を信じてた時代に、神様を否定する進歩的な人だったのに」 「ぐ……」 何が不愉快といって、瞬に、他の男と比較されることくらい不愉快なことはない。 ユーグと比較されるのは特に――もしかすると、一輝と比較されることよりずっと――氷河を不愉快な気分にさせた。 「じゃあ、おまえは、そういう理由で毎回俺を拒んでいるわけじゃないんだな!?」 また怒声になってしまった氷河に、瞬は臆する様子は見せなかった。 彼は、至極真面目な顔で、氷河に答えた。 「自然に反するっていったって、だって、それこそ“悪魔の作った”肉体上のことでしょ? 好きな人を抱きしめたいって心が思うことは、すごく自然なことじゃない。それが異性間のことでも、心が伴っていないのにそういうことをするのなら、そっちの方がほんとの意味での罪だと僕は思う」 「瞬……」 なんという感動的な言葉であろうか! 氷河は思わず心の中で万歳三唱し、ついでに、三々七拍子までしでかしてしまったのだった。 「そうそう。全くその通り。俺も同感、同意見だ」 調子に乗って瞬の肩においた氷河の手は、しかし、ぱしんと音を立てて、瞬に弾かれてしまった。 「だから、僕が氷河を拒むのは、氷河のすぐこーゆーふーに調子に乗るところがヤだからです!」 きっぱりそう断言すると、瞬はこれ以上氷河の相手などしていられないと言わんばかりに、彼に背を向けてホテルへの道を急ぎ出した。 長い石畳の道が跡絶え、やがて、瞬と瞬を追いかけてきた氷河の前に、城塞の正門が見えてくる。 まるで逃げるように早足だった瞬が少し歩調を緩めたのは、いつも瞬がそうするように、氷河が追いつくのを待つためではなかったようだった。 「瞬……? どうした。もう機嫌が直ったのか?」 いつもより5分は早いぞと訝りながら、氷河が瞬に歩み寄ると、瞬がゆっくり後ろを振り返る。 瞬は、朝には離れていくこの城塞都市を立ち去り難く思っているのだと、氷河にはすぐわかった。 ユーグとシュンの命が消えた後も、重々しい石の城は、度々主を替えながら、八百年間この地に変わらぬ威容を保ち続けてきた。 カタリ派が滅び、カタリ派を滅ぼした者たちが滅んでも、この城は、この城に関わった者たちの悲劇をその懐深くに抱きながら、人間の犯す多くの過ちを静かに見詰め続けてきたのだ。 「……僕たちはもう、神様のいない国に住んでいるのかもしれないね……」 コンタル城にひときわ高くそびえる悲しみの塔を見あげながら、瞬がぽつりと呟く。 シュンやユーグが生きていた時代に罪だったものを、今の瞬には罪だと感じることができない。 現代は、罪のない時代なのだ。 「……人殺しはまだ罪だ」 罪でない罪のためにシュンは死に身を委ねたのではないと、氷河は瞬に暗に告げた。 もしかしたら幸福になれていたのかもしれない恋人たちの悲運を悲しむ瞬の気持ちが、それで慰められることはないだろうと思いつつも。 が、少なくとも瞬は、自分に向けられた氷河の思いやりだけは受けとめてくれたようだった。 愁いを浮かべた眼差しを、石の城から氷河へと巡らせる。 「うん……そうだね。でも、僕、シュンは――もし、あれが自分を守るためじゃなく、ユーグのためにしたことだったなら、シュンはその罪さえ乗り越えられていたんじゃないかと思うんだ……」 「……」 あのシュンならそうだったのかもしれない。 今にも崩れ落ちそうに頼りなげな風情をしていながら、ユーグに愛され愛することで強さを増していったあの少年なら。 そして、おそらく、シュンをそういう人間だと考える瞬もまた、その内に、シュンと同じ情熱を秘めているのだ。 この瞬が人を愛したら、彼はどれほど深く激しい思いを相手に向けていくのか――。 (いつになったら、それを手に入れられるんだ、俺は……!) 時折、瞬の気持ちが熟す時を律儀に待ち続けている自分が、底無しの馬鹿に思えてくる。 いっそ、あの十字軍騎士がそうしたように、無理にでも瞬を奪ってしまった方が、自分も瞬も余程楽になれるのではないかと思わないでもない氷河だった。 だが、しかし。 「人の不運に触れて、こんなこと思うのは傲慢なことなのかもしれないけど……ある意味、僕たちって幸せな時代に生きているのかもしれないね。僕たちは、自分の気持ちと相手の気持ちを尊重するだけで、恋を実らせることができる時代に生きているんだもの……」 自分たちの幸運を悲しんでそう告げる瞬を無理に奪うことは、やはり氷河にはできそうになかった。 |