Modulation

- レウキッポスとダフネ -







真昼の陽光が世界を照らすように瞭然と、神々が、世界と人間と自然とを支配していた時代。
テッサリアのテンペ渓谷は、初夏の緑に包まれていた。
その緑に反射する光を受けて、緑色に輝いてみえる長い髪の少女が一人、小さな岩に腰をおろし、谷川の水に足を浸している。
まだ子供のように細い手脚を剥き出しにし、長く背を覆う髪が目につかなかったら、優しい面立ちの少年と見誤ってしまいそうな野生的な少女。
その瞳もまた、自然の緑を映し取ったかのような色を呈し、初夏の朝の陽の光に似た輝きを発している。
オリュンポス山の頂の雪のような肌の白さがなかったら、緑一色に染まった渓谷の中に、少女はすっかり溶け込んでしまっていただろう。

レウキッポスは、先ほどからずっと 彼女に声をかけることもできず、その光景に見入っていたのである。
渓谷内に響いた山鳥の声に はっと我にかえったレウキッポスは、自身の今日の目的を思い出し、足音を忍ばせて彼女が腰をおろしている岩場に近付いていった。
風下から、影が本体よりも先に少女に見てとられないようにと注意しながら。
それほど気をつけないと、ほんのちょっとだけでも この少女を驚かすことは難しいのである。
少女の勘の良さと注意深さを、幼馴染みであるレウキッポスは、よく知っていた。
「ダフネ……」
レウキッポスがその名を言い終えるより早く、ダフネの足が谷川のせせらぎの中から撥ねあがる。
小さな足が少しばかりの雫を宙に舞いあげ、それはレウキッポスの金色の髪を濡らすことになった。

「ダフネ!」
レウキッポスが、今度は、驚かすためではなく責めるために、その名を口にする。
ダフネは、しかし、少しも たじろがず、いたずらっぽい笑い声をあげた。
「人がいるとは思わなかった。ごめんなさい」
「……」
わざとしたことだとわかっていても、レウキッポスは彼女に苦笑を返すことしかできなかった。
これが、このお転婆な娘の親愛の情の示し方なのだし、彼女がこんな悪戯をするのは自分に対してだけなのだ。
そう思えば、ダフネの為す どんなことも、彼女に向かうレウキッポスの思いを掻き立て 募らせるための健気な遊戯に思える。
愛しさが増すことはあっても、彼女のいたずらを不快に思うことは レウキッポスにはできなかった。

しかし、今日は いつものように甘い顔は見せられない。
レウキッポスはダフネの腰掛けている岩の脇に立ち、意識して真面目な顔を作った。
「許してやるから、今日はしばらく俺の相手をしてくれ」
「レウキッポスの相手をして、何をするの」
緑色の瞳で、ダフネがレウキッポスを見上げてくる。
レウキッポスは咳払いを一つして、半ば命令するように彼女に告げた。
「それはもちろん、恋の語らいというやつだ。毎日俺を放ったらかしにして、栗鼠か兎のように野山を走りまわってばかりいて 何になるんだ、まるで男の子のように」
言われて、ダフネが、岩の上に立ちあがる。
自分より はるかに背の高いレウキッポスを、今度はダフネが見おろすことになった。

「ふーん。男だったら、毎日そこいらを走りまわっていても何も言われなくて、レウキッポスの恋の語らいってのの相手をしなくてもいいんだ。男に生まれてくればよかったな」
からかいを含んだ笑みを浮かべ、ダフネがぼやく。
レウキッポスは、そんなダフネの腰を引き寄せた。
「それは甘い考えというものだ。たとえ おまえが男だったとしても、もちろん俺はおまえを引きとめて恋の語らいを始めるさ。俺がおまえを好きになったのは、おまえが女だからではないんだからな」

レウキッポスの腕を逃れようとしていたダフネは、しかし、レウキッポスのその言葉を聞いて、そうするのをやめてしまった。
ぱちくりと瞬きをして、レウキッポスの青い瞳を覗き込む。
「それ、ほんと?」
「もちろん」
「じゃ、なんでレウキッポスは、いつも野山を走りまわってる男の子みたいな私を好きになったの」
ダフネが、レウキッポスの金髪に指を絡ませながら尋ねる。
実際のところダフネは、決してレウキッポスを遠去けたいと思っているわけではなく、それどころか、自分がレウキッポス以外の誰かを愛することなどありえないと、幼い頃から確信していたのだ。
そして、それは、レウキッポスも同様だった。

「仕方がないだろう。子供の頃から、おまえしか目に入らなかったんだ。俺の知っている限りの すべての人間の中で いちばん綺麗なのも、いちばん優しいのも、いちばん賢いのも、みな おまえなんだからな。おまえは俺が手をのばすといつも逃げ出すくせに、俺が苦しんでいる時や悲しんでいる時には必ず俺の側にいて、俺を力付けてくれた」
父を失った時、母を失った時、いつもそうだったのである。
そっと差しのべられるダフネの白い手のおかげで、レウキッポスはこれまで絶対の孤独というものを知らずに生きてこれたのだった。

レウキッポスの真剣な眼差しに負けて、ダフネが少し素直な気持ちになる。
ダフネは、レウキッポスの首に腕を絡ませていった。
「ごめんね。レウキッポスはとっても綺麗で、いつもニュムペーや人間の女の子たちに騒がれてるから、私、ちょっと不安になって、意地を張ってるだけなの。レウキッポスを放っておきたくて そうしてるんじゃなくて、レウキッポスの周りにニュムペーたちがいるのを見るといらいらして、だから、そんなの見なくて済むように、いつのまにかレウキッポスの見えないところに逃げだしちゃうだけで」
「心外だ。俺はおまえ以外の女に甘い顔をしてみせたことはないぞ」
「うん。でも、そういう素っ気ないとこがいいんだって、みんな、言ってた」
「わからんな。俺は子供の頃から毎年、今年のヘライオス祭にこそ必ずダフネと共に女神ヘラに婚姻の誓いを立てると広言してまわって、毎年おまえに逃げられて、皆の笑い者になっているっていうのに」
「……」

いつもはダフネとの“恋の語らい”も冗談めかし、ダフネが逃げようとしても無理には引き止めようとしないレウキッポスが、この時期になると ひどく真剣な目をしてダフネを見詰めることになるのは、ヘライオスの祭が近いからである。
ダフネが10歳になった年の夏から、それは毎年の恒例行事だった。
「……私のことしか目に入ってないみたいなとこがいいんだって。そんなふうに、自分のこと見てほしいんだって。私よりずっと綺麗で女らしい人たちが、自信満々でレウキッポスを振り向かせてみせるって言うんだもん。私、逃げたくなっても仕方ないと思わない?」
「思わない。おまえの目は、どこかおかしいんじゃないか? 俺は、おまえより綺麗な人間にもニュムペーにも女神にも出会ったことはないぞ」
真顔で言うレウキッポスに、ダフネは形ばかりの笑みを作ってみせた。

「レウキッポスの目が、ずっとそんなふうにおかしいままでいてくれたら嬉しいんだけど……」
いつになく気弱なダフネの言葉に、逆にレウキッポスは力を得た。
「俺の目がおかしいという見解には得心できないが、俺の目はいつまでも 今と同じようにおまえを映し続けるさ。だから、な、ダフネ。今年こそ俺と女神ヘラに誓いを立ててくれ。これ以上俺を待たせないでくれ」
「……」

ダフネが素直に頷けないのは、いったいなぜだったろう。
ダフネは、いつも なぜか不安だった。
目の前にある夢のような幸福を手に入れたが最後、自分の人生のその先には不幸しか待っていないような──そんな予感がしてならないのだ。
「頼む、ダフネ。おまえを他の誰かに奪われてしまうんじゃないかと不安に苛まれて過ごす毎日に、俺はもう耐えられない」
「そんなこと、ありえない」

ダフネはレウキッポスの腕から逃れると、立っていた岩から飛びおりた。
振り向きざま、少しばかり意地悪く レウキッポスに笑いかける。
「私がアルテミス様の信奉者で、ひどい男嫌いだって噂をレウキッポスが流してくれてるおかげで、私に近寄ってくる男なんかいないもの。その点に関しては、私もレウキッポスには とても感謝してるけど」
「……」
痛いところを突かれて、レウキッポスは言葉を詰まらせた。
しかし、レウキッポスにしてみれば、それは当然にして必然の防衛策だったのである。
レウキッポスだけが知っていればいいダフネの価値に、他の男たちが気付かないという保証はないのだから。
見る目のある者にはわかるはずなのである。
飾ることなく自然のままのダフネの美しさも、優しさも。
「姑息と言われようと、嘘つきと言われようと、俺は構わないからな! 俺の幸福はみんなおまえの目の中にあるんだ。それを手に入れようとして、何が悪い」

きっぱりと断言するレウキッポスに、ダフネは呟くように言った。
「不幸にしてしまうかもしれないでしょ、私がレウキッポスを」
「おまえのために不幸になるのなら、それだって俺にとっては幸福でしかない」
「──」
ダフネの方が、今度は言葉に詰まる。
ダフネは確かに幼い頃からレウキッポスを愛していたし、恋してもいた。
いつもいつもこんなふうにレウキッポスに愛を求められ、愛の言葉を捧げられ続けて、心を持つ者の心が動かないはずがないのである。
そして、だからこそ、自分の心は決して変わらないと言い募るレウキッポスの自信が、ダフネは恐くもあったのだ。

「ダフネ……?」
黙り込み、俯いてしまったダフネの細い肩に、レウキッポスは気遣わしげな目を向けた。
そんなに無体なことを強要しているつもりはレウキッポスにはなかったのだが、ダフネが嫌がることを無理強いすることは、レウキッポスにはできなかった。
手を、そっとダフネの肩にのばし、労るような、そして 諦めを含んだような声音で、幼く臆病な恋人に告げる。
「ダフネ。おまえがまだそんな気になれないというのなら、いいんだ。俺は、いつまででも待てるから。無理を言って悪かった。もう言わないから……ダフネ、笑ってくれ」
結局 強引になりきれず、これまで毎年そうしてきたように、レウキッポスは今年も折れてしまった。
(――6度目の求愛も徒労に終ったか……)
そう、心の中で咳きながら。

ダフネが、そんなレウキッポスを上目使いに見上げてくる。
ダフネに笑顔になってもらうため、レウキッポスは落胆を押し隠して、彼女に優しく微笑み返した。
来年にはダフネは16歳になる。
いくらダフネに飾り気がないといっても、その美しさは隠しようがなくなるだろう。
不安は大きくなるばかりだったが、レウキッポスにはやはり、ダフネに無理を押し通すことはできなかった。
裸足の、野生の、それでいて華奢な緑色の宝石──ダフネが自然に恋人を求め受け入れてくれるようになるまで、自分は待ち続けるしかないのだと、レウキッポスは自身に言いきかせた。






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