(──ほんとにどうしてなんだろ。私はレウキッポスが好きなのに……確かにレウキッポスが好きなのに――それに、レウキッポスはとっても優しいのに、だのに、私、レウキッポスのこと恐いって思ったりしてる……) レウキッポスの真剣な眼差しを避けるように、林の中に逃げ込んだダフネは、楡の木の幹にもたれ、木洩れ陽の揺れ動く様を見詰めながら、溜め息をついた。 おそらく それは、まだすっかり大人になっていない、だが大人になりかけている少女の、まだ子供でいたいという思いと、日を追うごとに強くなっていくレウキッポスヘの思いが作り出す葛藤だった。 しかし、大人になりかけている娘を 優しく教え導いてくれる母のないダフネに、そんなことがわかるはずがない。 同性の友人たちは ダフネよりずっと早く大人になってしまい、いつまでも幼いままのダフネを笑い からかうことしかしてくれなかった。 そんなふうに、レウキッポスに冷たくしたことをダフネが後悔し始めた時。 「ただの人間にしては随分美しい若者だったのに、素っ気なく袖にしてしまったな。あの青年には、この辺りのニュムペーや女神たちの中にさえ、心を奪われている者も多いというのに。もしや、そなたは、自分には もっとふさわしい男がいると思い上がっているのか?」 ふいに響いてきた声に、ダフネは ぎくりと身体を強張らせることになった。 振り返ると、そこには、青年の姿をした一人の神がいた。 背丈や見掛けの年齢はレウキッポスと同じほどだし、その姿形は、もしかするとレウキッポスの方が美しいのかもしれないが、身にまとう神衣の豪華さ、実際に生きてきた歳月がどれほどのものなのかを判別しかねる瞳の色、何より この世界に恐れるものは何一つないというかのように自信に満ちた態度は、到底普通の人間のそれではなかった。 「そんなに怯えた目をすることはない。危害を加えようというのではないんだ。私は、大神ゼウスの息子、予言の神にして音楽の神、医術の神にして弓矢の神、デルポイとテネドスを治める者──」 「アポロン様 !? 」 怯えるなと言われて怯えずにいられる相手ではない。 ダフネは、驚きのあまり、その場に跪くこともできず、身をすくませた。 アポロンがゆっくりとダフネの側に歩み寄ってくる。 右の手をのばし、彼は ダフネの顎を捕らえた。 「あの人間の求愛を拒んだのは賢明なことだ。ダフネと言ったか? そなたの瑞々しい美しさは、人のものになるためではなく、神のものになるためにある。その瞳、唇、柔らかな肩、華奢な脚──惜しげもなく人目にさらしているものがこれほど美しいのだから、衣の中に隠しているものは もっと美しいのだろうな?」 ぞっとするようなことを言われ、ダフネは、この若く傲慢な神に、激しい嫌悪感を抱いた。 身を翻し神の手から逃れようとしたダフネは、しかし、青年神の力強い腕に捕らえられ、次の瞬間、その唇を奪われてしまっていた。 神の情けを受ける光栄など、ダフネには何の価値もないものである。 レウキッポスにさえ触れることを許さずにいたものを突然奪い取られたダフネは、恐怖と屈辱にかられ、ゼウスの息子を突きとばした。 アポロンは、それでもどこか余裕に満ちた目でダフネを見おろしている。 「可愛らしい抵抗をするものだ。神に愛される光栄を喜ばぬのか? そなたは、ゼウスの息子である私の力が恐ろしくはないのか?」 それは、恐ろしさに霧えているダフネを揶揄するような口調だった。 ダフネは、しかし、勇気を震い起こして叫んだのである。 「レウキッポスのためにあるものを、レウキッポス以外の者に与えることなんかできない! レウキッポスが生きている限り、私はレウキッポスだけのものだもの!」 「おやおや、おかしなお嬢さんだ。先程は、あの若者にあれほど つれなくしていたのに」 ダフネに睨みつけられて、アポロンは微かに苦笑した。 「レウキッポスが生きている限り――ね。いいだろう。私は出直すことにしよう」 長い衣の裾を翻し、アポロンはダフネに背を向けた。 木洩れ陽の中に揺れ動いたかと思うと、一瞬の後には、その姿がダフネの視界から消え失せる。 途端に、全身から力が抜け、ダフネは その場に へたり込んでしまった。 強大な力を持つ神に対して、なんという恐ろしいことをしてしまったのかと、今更ながらに身体が震え始める。 神の怒りが急に現実味を帯びて身近に感じられ、ダフネはよろよろと立ちあがった。 一刻も早くレウキッポスの許に行き、レウキッポスに抱きしめてもらわなければならない。 他に、この恐ろしい気持ちを忘れる術はない。 レウキッポスの あの腕の中以外に、自分が息づける場所はない。 ダフネは、初めて その事実――それは疑いようのない事実だった――に気付き、確信した。 |