神々は 依然地上を支配していた──人間に対しての優位を保っていた。 だが、世界は、確かに少しずつ変わっていたのである。 巨人族を滅ぼして 神々が世界の覇権を手に入れた頃には考えられなかったこと──神が人間に恋をするということ、それによって引き起こされる様々な悲劇──が、あちこちの国で、人々の噂にのぼるようになってきていた。 それは、神々が人間への支配力を失う時代の前兆。 神ではなく人間が世界の支配者となる時代の訪れを示唆するもの。 そんな悲劇の一つが、また始まろうとしていた。 細い海峡でエーゲ海に繋がるエウクセイノス海の 「何を泣いているんだ?」 背後から聞き慣れぬ声が響いてきたが、シュンは顔をあげようともしなかった。 両腕で膝を抱え、その膝に額を押しつけるようにして、シュンは岩陰に隠れ うずくまっていた。 シュンが一人、そんなところに隠れて泣いていたのは、今のシュンが 自分の悲しみの相手をするだけで精一杯だったからである。 他人の相手をするだけの余裕があったなら、シュンは、悲しみに沈む家の中で 父や兄たちと共に涙を流すこともできていただろう。 その日の朝、シュンは、病で母を亡くしたのだった。 つい昨日までシュンの髪を梳いてくれていた優しい手が石のように動かなくなり、つい昨日までシュンを見詰めてくれていた温かい瞳は固く閉じられ、二度と開かない──。 母を失ったシュンの悲しみは、父や兄たちの不器用な慰めや励ましでは、すぐにはシュンの内から消えていってくれそうになかった。 だから──シュンはその日の午後をずっと、昨日までと変わらず穏やかな波の打ちつける青い海の辺で、ひとり 嗚咽を洩らし続けていたのだった。 その涙がやっと乾き始めた頃、瞬はほんの少しだけ顔をあげた。 もう随分長いこと泣き続けていたような気がするのに、辺りはまだ真昼のように明るい。 永遠に止まらないのではないかと思われた涙も慟哭も、もしかしたら日暮れを待つまでもなく癒されてしまう程度のものだったのだろうかと訝りながら、シュンは周囲に視線を巡らせた。 エウクセイノスの海は真昼の海の色を呈し、その海に続く空も真昼のように輝いている。 しかし、その空のどこにも、太陽は見えなかった。 太陽が空にないのに、辺りは明るく輝き、暖かい陽光に覆われている。 エウクセイノスの海と空を輝かせている光は、空から降ってくるものではないようだった。 シュンは幾度か瞬きをしてから、先程シュンに涙の訳を尋ねてきた声のした方を振り返ったのである。 そこに光の源があった。 光輝く金色の髪と、金のように銀のように不思議に輝く明るい瞳の、若さに輝く光の神の姿が。 振り向きながら身体を起こしかけていたシュンは、驚きと恐怖の余り、再び砂の上に座り込んでしまったのである。 人間のそれとは較べようもなく美しい貌と高貴。 身に着けているのは、 神々を シュンは、自分が神の御声を無視して、自分の悲しみに浸っていたのだということに初めて気付き、身をすくませた。 (ど……どうしよう……僕……) 気紛れで誇り高い神々の、人間の不遜に対する過酷な罰の話を、シュンは幾度となく両親に聞かされていた。 女神レートーに無礼を働き、蛙に変えられてしまったリュキアの農夫の話、アルテミスの怒りを買って、鹿の姿に変えられてしまった王子アクタイオンの話、戦いの女神アテナによって怪物にさせられてしまった少女メデューサの話──。 恐ろしさのあまり、シュンの身体はぶるぶると震え始めていた。 そして、そんなふうに震えながら、それでもシュンは、その光の神の美しさにすっかり魅せられてしまっていたのである。 「なぜ、こんなところで一人で泣いている?」 光の神の声は、思いがけず優しかった。 低く穏やかで落ち着いた声。 そして、その声にすら光が宿っているような温かさ──。 シュンは、しかし、すぐには返事もできず、その大きな瞳でじっと光輝く男神を見あげ、見詰めるばかりだったのである。 光の神は、そんなシュンを見おろして、口許に微かな笑みを浮かべた。 「驚かせてしまったか? すまなかったな。危害を加えるつもりなどないから、安心するがいい」 「あ……」 思いがけない謝罪の言葉に、シュンはまた驚いて息を飲んだ。 神々の内でも高位にあるのだろう光の神が、小さな人間の子供に、これほど優しい言葉をかけることがあろうとは。 「あ……あの、も……申し訳ありません。ぼ……僕、知らなかったの。だって、こんなところに神様がいらっしゃるなんて、だって僕……僕……あの、僕、おいしくないから食べないで……!」 シュンが小さな両手を握りしめ、小さな声で叫ぶように懇願すると、光の神は今度ははっきりと声をあげて笑った。 「はは……。おまえには、この私がミノタウロスや、ゴルゴーンにでも見えるのか? 私はこの海の向こうの 光の神のその言葉を聞いて、シュンはいっそ、彼がミノタウロスやゴルゴーンであった方がどれほどましだったろうかと思ってしまったのだった。 ヘリオポリスの主──それはつまり、自分が無礼を働いた相手が、太陽神そのひとだということである。 たとえ今ここで命を奪われても光栄と思わねばならないほどに偉大な神の一柱だということだった。 「ヘリオス様……?」 掠れた声で、シュンはやっとその神の名を口にした。 あっさりと光の神が頷き、そして、シュンに問いかけてくる。 「知っていてくれたとは光栄だな。で? おまえの名は?」 光の神は、いつまでも砂の上に座り込んでいるシュンの前に、あろうことか片膝をつき、シュンの頬に残る涙の雫を確かめるように、シュンの顎をすくいとった。 「ム……ムネモシュネー……」 震える声で答えたシュンに、ヘリオスは少し意外そうな表情を作り、それから低い声で呟くように言った。 「ムネモシュネー……古い女神の名だな」 それはシュンもよく知っていた。 ムネモシュネー ──それは、大神ゼウスに9日9晩愛されて、9人のムーサを産んだ古神の名だった。 ヘリオスの意外そうな表情が、他の人間たちが初めてシュンの名を聞いた時のそれと同じだったので、シュンはつい 相手が偉大な神だということを忘れ、いつも自分がそういう人間たちにするように、肩に力を入れてきっぱりと言い立てたのである。 「でも、僕、ちゃんと男の子だよ! もう8つになったんだ!」 シュンの言葉に、ヘリオスが苦笑を洩らす。 シュンが生きてきた8年間は、ヘリオスがこの世に存在するようになってから過ごしてきた数千年の年月に較べれば、時間とも呼べないような短い時間である。 それは“永遠”に較べたら、星の瞬く一瞬よりも短い時間だった。 「8つか。それはすごい」 決して皮肉にではなく、だが心の底からの感嘆を伴ってでもなく、ヘリオスは相槌を打った。 それに力付けられたように、シュンの声が弾む。 「うん。あのね、それでね、僕が生まれた時、デルポイの町からのお使いが神託を知らせに来たんだって」 デルポイは、予言の神アポロンの治める町である。 大神ゼウスと女神レートーの間に生まれたアポロンは、予言の神にして医術・音楽の神、大神ゼウスの最も深い愛を得ている息子だった。 デルポイの神託といえば、それは百パーセントの確実性をもって実現する未来──ということになる。 「アポロンの神託をか?」 「うん」 「何と言ってきたんだ」 「……」 ヘリオスが尋ねると、シュンはふいに口をつぐんでしまった。 忘れていた“物怖じ”を突然思い出したかのように。 「良くない神託だったのか?」 重ねて尋ねてくるヘリオスに、シュンは小さく横に首を振った。 「意味は、誰にも──村で一番長く生きてたお婆さんにもわからなかったんだって。『人としての記憶で、神の愛を人の愛に変える子だ』って言われたの」 「なるほど。それで シュンのその名は、両親からもらったものではなく、神託を聞いた村の老婆が付けた名だった。 シュンは、そして、その名があまり好きではなかったのである。 「でもね、父さんや兄さんたちはみんな、シュンとかシュナとか呼ぶよ。母さんも──」 シュンがきつく唇を噛む。 「母さんも、昨日まで、僕のこと、シュンって呼んでくれてたよ」 そう告げた途端、枯れてしまったはずの涙がまた溢れ出る。 ヘリオスは、その涙の訳をすぐに理解した。 人間には、“死”という避け難い運命があることを、彼は思い出したのである。 「……そうか」 咳くように そう言ったヘリオスの声音が、あまりに静かで優しげだったので、シュンの中に僅かに残っていた神への畏怖はすっかり消え去り、そして、ヘリオスに気付く前にシュンの心を占めていた悲しみがまた、その心を支配し始めた。 兄たちのように狩りや漁に行くほどの年齢にも達していなかったシュンは、毎日のほとんどの時間を母と共に過ごしていた。 シュンの頭を撫でてくれた優しい手、シュンの名を呼ぶ温かい声──それらを永遠に失ってしまったのだという思いが、再びシュンの胸をいっぱいに満たし、シュンはまた大声をあげて泣き出したいような気持ちになってしまったのである。 そんなシュンの気持ちを察したのか、ヘリオスはその左の手をシュンの頬にのばしてきた。 「我々神には“死”はない。神々が永遠の先に行きつく場所は“死”ではなく“無”だからな。だが、人間の魂は再生することができる。おまえが母の死に挫けることなく生き続けていけば、この先、母の生まれ変わりに出会うこともあるかもしれない」 「生まれ変わり?」 父の節くれだった手とは較べようもなく美しいのに、父の手と同じ温かさを持ったヘリオスの手から、安らぎに似た思いが流れ込んでくるのを、シュンは感じていた。 「そう。生まれ変わりだ。それは、野辺に咲く一輪の花かもしれないし、美しい少女かもしれない。母から受けた愛を、今度はおまえが他の誰かに与えることで、おまえの母の心は永遠を得る。……だから、泣くのは今日だけにしなさい、シュン」 光の神の唇から響いてきた自分の名に、シュンは心を震わせ、そしてゆっくりと深く頷いた。 「神様って、とっても優しいんだ。僕、知らなかった……」 拳で涙を拭い、シュンは微かな笑顔を太陽神に向けた。 シュンの瞳に明るさが戻ったのを認め、ヘリオスもまた僅かに目許に微笑を刻んだ──と、シュンは思った。 そして、次の瞬間、シュンは、闇の中に一人で立っている自分に気がついたのである。 シュンを包んでいた鮮やかな光は、今はもう視界のどこにも砂の粒ほどにも見い出せず、ただ波の音だけがシュンを慰めるように響いている。 だが、シュンは不思議に寂しさは覚えなかった。 (神様って優しいんだ……) ヘリオスが身にまとっていた光のかけらが、シュンの心にまだ残っている。 母を失った悲しみが薄れていっても、シュンは太陽神の優しい手の感触を忘れることはなかった。 太陽神の美しさより、若々しい力強さより、その手の温かさこそがシュンを力付けてくれたものだったから。 もう二度と会うことはないだろう偉大な神との出会いを、シュンは父にも兄たちにも告げなかった。 |