ヘリオスが再びその浜に降りたったことに、さほど深い意味はなかった。
少なくとも、母を失って泣いていた小さな子供のことを憶えていたからではなかった。
ただ彼は、その小さな海に映る陽の光が──他の海に映るそれとは微妙に違うその色合いが 好きだったのである。
エウクセイノスの海は、サファイアのようにただ青いだけの海とも、エメラルドのようにただ深いだけの海とも違っていた。
それは、その日その時々で色合いを変え、表情を変える。
エウクセイノスの海は、永遠という不変の時間を生きる神にではなく、生まれては死を迎え再生を繰り返す人間に似た、不思議に魅力的な海だった。

「……ったく! いったいあの男は何を考えているんだっ !! 」
ヘリオスの耳に、突然憤懣やる方ないと言わんばかりの怒声が聞こえてくる。
昼下がりの明るい陽の光に満ちた砂浜。
その明るさの中に、ヘリオスは自身の発する光を紛れ込ませたまま、声のした方に視線を巡らせた。
その口振りからして、声の主はひどく腹を立てているのだろうが、声の質自体は やわらかく優しい。妙に釣り合わないその声の響きと言葉に、ヘリオスは興味を抱いたのである。

ヘリオスのいる岩場から少し離れたところに、声の主はいた。
掴んだ砂を海に投げつけたその少年の髪が、海の色を映して、不思議な海緑色に輝いている。
その髪の色を見た途端、ヘリオスは、7、8年前にこの浜で出会った小さな男の子のことを思い出したのである。
母を亡くして瞳を涙で濡らしていた子供があんな色の髪をしていた──と、ヘリオスは記憶していた。
永遠の命を持つ神にとって、8年という月日は、死という未来を持つ人間の1秒にも満たない短い時間である。
その1秒の間に随分と手足の伸びた少年をからかってやろうという軽い気持ちで、ヘリオスは少年の側に歩を進めた。

「泣いたり怒ったり、忙しい子だな」
「え?」
シュンが、ヘリオスの声に弾かれたように振り向く。
しかし、驚いたのは──より驚いたのは──シュンよりもヘリオスの方だった。
1秒──ほんの1秒のうちに、あの小さな子供は恐ろしく変わってしまっていたのだ──美しく。

母の死という、おそらくは生まれて初めての深い悲しみを知って、それでもまだ明るいだけの色をしていた瞳が、今は不思議に見る者を惹きつける深みを帯びて、エウクセイノスの海の色にも似た輝きを放っている。
珊瑚の色の唇と、形の良い眉。
滑らかに白い頬と のびやかな手足。
それはまるで、自然が無造作に作った可憐な白い花が、自然を圧倒するほどの輝きを発しているかのようだった。
人間のそれとも思えないほど見事な造作をしているというのに、その美しさは、確かに人間だからこそと思えるような生気に満ちている。
ヘリオスは、思わず感嘆の息を洩らした。

(これはまたなんという……。無邪気と清純の女神アストライアーすら恥じ入ってしまいそうな──いや、これは神などと比べていい種類の美しさではない)
ヘリオスの前にいるのは、無邪気な瞳をしているようで無邪気そのものではなく、清純な表情をたたえていながら清純そのものではなく、確かに非常に美しいが、単純に美だけで成り立っているものでもなく──そして、だからこそ、見る者を魅了してやまない何かを全身にまとわせた生き物だった。
その不思議な生き物の瞳が輝き、その輝きが、一瞬のうちにまた違う輝きに変わる。
その変化はエウクセイノスの海のきらめきよりも、新鮮で鮮烈だった。

「ヘリオス様!」
シュンの頬が薔薇色に上気し、声に喜びの響きが絡む。
「まさか、またお会いできるなんて……」
屈託のない声は、しかし、8年前とは違う甘い音色でヘリオスの心に響いてきた。
(──私は愛の神エロスの矢にでもこの胸を射抜かれたのか……)
そうとでも考えなければ合点がいかないほど突然に、ヘリオスはこの少年に心を囚われてしまっていた。

ヘリオスが自分を見詰めるばかりで何の言葉も返してくれないのを訝ったらしい。
シュンの瞳の色が、不安げな海の色に変わる。
「──もしかして、僕のこと、お忘れですか……」
落胆を隠しきれずに肩を落としたシュンに、ヘリオスが微かに首を横に振る。
「いや……君があまりに美しく変わってしまったので驚いただけだ。憶えているよ、泣き虫のムネモシュネー」
「あ……ありがとうございます……! 憶えててくださって、僕、嬉しい!」
心の底から嬉しそうに、まるで花がほころぶような笑顔を、シュンが浮かべる。
その微笑の眩しいほどのきらめきに、ヘリオスは目を細めた。
そして、そんな自分をごまかすために、無理に何気ない笑みを口許に刻んだ。

「で、何を怒っているんだ? 誰に腹を立てている?」
「え……あ……あの……」
あまり見られたくないところを見られてしまったと思ったらしく、シュンは軽く唇を噛んで顔を伏せてしまった。
それ以上 問い詰めるのはやめようかと考えないでもなかったのだが、ヘリオスはシュンの怒りの対象に関心を抱かずにいることができなかったのである。
神でさえ たじろいでしまいそうなほど美しいこの生き物を怒らせるような真似のできる人間の存在が、ヘリオスには信じられなかった。
(この子に愛を乞うて跪く人間なら、何人いても不思議とは思わないが……)
そんなことを胸の内で眩きながら、ヘリオスはシュンの答えを待ったのである。

シュンは、溜め息を一つついてから、その腹立ちの訳を話し始めた。
「僕には兄が二人と父がいて──男の家族しかいなくて──つまり、母が亡くなってから、母のしていた仕事は僕が全部することになったんです。その仕事の中に果樹園の世話っていうのがあって──その果樹園に、果樹の女神ポーモーナ様の祝福を受けた木だと言われてる林檎の木があるんです。特に大きな実のなる木で、村中で大事にしてる木。で、その果樹園の東側の土地が、この辺りでいちばんの領主の土地で、そこに大きな樫の木があるの。去年まで毎年、ポーモーナ様の林檎の木に陽が良く当たるようにって、その樫の木の枝を持ち主の領主に落としてもらってたんですけど、今年はそんなことできないって言うんですよ。だから、ポーモーナ様の林檎の木を枯らしたりしたら、どんな災いが振りかかるかもしれないから枝を切ってくれって、僕、今日、領主のところに頼みに行ったんです。そしたら、そこの馬鹿息子が……!」
「……馬鹿息子が?」

愛らしい唇から随分な言葉が飛び出てきたものだと、ヘリオスは苦笑しながら、その言葉を繰り返した。
シュンがその形の良い唇を歪めて、怒りを露わにする。
「そこの馬鹿息子がね! 枝を切ってやってもいいけど、その代わりに、僕に──」
「君に……何をしろと?」
「え……いえ……」
シュンが口ごもるのを見て、ヘリオスはすぐにその“馬鹿息子”がシュンに何を求めてきたのかを察することができた。
女神アストライアーより美しい少年が目の前にいたら、神だろうと人だろうと求めるものはただ一つ、愛だけに決まっている。
ヘリオスは、そして、そう察した途端、その馬鹿息子に激しい憤りを覚えた。

「君にはちゃんと恋する乙女がいるのに?」
ヘリオスがかまをかけると、シュンはぷるぷると横に首を振った。
「そんなのはいないですけど……」
「では、別のたくましく美しい青年が、君を慈しんでくれているのか」
「そんなのもいないんです。僕、ただ、あの馬鹿息子が嫌いなの。その馬鹿息子、アルカスっていう名なんですけど、自分は母と大神ゼウスの子だなんて言って威張り散らして、僕だけじゃなく村の人たちにも意地悪ばっかりするんだもの」
シュンは本当にその“馬鹿息子”が嫌いらしい。
その名を口にするのも不快らしいシュンの表情に、ヘリオスはむしろ快さを覚えていた。

「あの馬鹿息子が本当にゼウス様の子だっていう証拠はないけど、そうじゃないって証拠もないでしょ。ゼウス様の好色は有名で、そういうのもありそうなことだもの。ゼウス様とポーモーナ様のどっちを怖れるかっていったら、そりゃゼウス様の方が恐いですし……」
「その心配は無用だろう。その馬鹿息子はゼウスの子などではない」
「え?」
確信に満ちたヘリオスのその言葉に驚き、シュンがぱっと顔をあげる。
金色とも銀色ともつかない穏やかな瞳が、その眼差しが、自分に注がれているのに気付いて、シュンは なぜかすぐに瞼を伏せることになった。

「ゼウスは神だ。何より誰より自分が神であることを望んでいる神だ。神の力と権威と栄光を維持することが己れの義務と考えている神だ。人間の女を愛したりはしないし、ましてや子を産ませたりなどしない。ゼウスの妻は、ヘラ、レートー、メティス、デメテル、すべて歴とした女神たちだけだ」
「でも、ゼウス様はあちこちの人間の女を手当たり次第に自分のものにして子を産ませてるって、みんな言ってます……」
「人間界の王族・貴族たちは皆、自分の血統にゼウスの血が入っていると喧伝して、自分たちの権威を高めようとしているんだろう。ゼウスの子と言われている者たちの母親が人妻なら、父はその夫だろうし、母が未婚の娘なら、おそらくその娘は人間の男とふしだらなことをしたんだ」
「……」

太陽神の言葉にぽかんとしているシュンを見やり、ヘリオスは微かに苦笑した。
「君たちが思っているようなものではないんだよ、ゼウスは。ゼウスは、神の権威を高めることしか考えていない、どちらかといえば冷徹な男だ」
どうやらヘリオスは、あまりゼウスを好いてはいないらしい。
シュンは何となくそう感じた。
神々の間には、人間などには思いもつかない複雑な関係が成り立っているようだ──と。

「さて。では、そのアルカスとやらを懲らしめに行くとするか。太陽神の小さな友人を、太陽の光のことで困らせるなんて、全くとんでもない男だ」
「ヘリオス様……」
ヘリオスが、どうやら自分の苦境を打開するために力を貸してくれるつもりでいるらしいことを知って、シュンは思わず胸を弾ませた。
幼い頃、泣きべそをかいていた自分を慰めてくれた時と変わらず優しく力強い神──その神に“小さな友人”と言ってもらえたことで、シュンは誇らしさと喜びで胸がいっぱいになったのである。






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