長いこと兄の許を訪ねなかったセレネがヘリオポリスを訪れた直接の原因は、兄を懐かしんでのことではなかった。 ティターン神族から力を奪い、着々と地歩を固めつつあるゼウスたちオリュンポス神族の勢力に脅威を覚えてのことでもなかった。 神格を手放す時、ヘリオスとセレネは、太陽神あるいは月神としての神格以外の何物も、神々は二人から奪うことはできないという約定を、ゼウスと交わしていた。 彼等の支配する土地、住まう神殿、彼等に仕えるニュムペーたち、何もかも、である。 もっとも、ヘリオスがそんな約定をゼウスと交わしたのは、神々にシュンを奪われてしまわないため――ただそれだけだったのだが。 ヘリオスがゼウスと交わした約定がある限り、たとえアポロンがどれほどシュンに恋情を抱こうが、彼は決してヘリオスからシュンを奪うことはできない。 もしそんなことをしたら、アポロンは太陽神としての神格を返上する程度のことでは済まないのが、神と神の契約なのである。 そうではなく――セレネが兄の許にやってきたのは、神と神の契約の外にいる人間たちのせいだった。 数の増えすぎた人間たちが、セレネの所領であるラトモスの山にまで踏み込んできたため、である。 セレネとて神としての力をすべて失ったわけではないのだから、彼等を追い払おうと思えばそうすることは容易だったのだが、元来争いの嫌いな性格と、以前から彼女が オリュンポスの神々よりも人間の方に心を寄せていたせいもあって、セレネはそこを退去してきたのだった。 セレネは、彼女の月神の神格と引き替えに永遠の命と若さを約された一人の青年を伴って、ヘリオポリスにやって来た。 長い時をおいてセレネに再会したシュンは、かつて密やかに神秘的に輝いていたセレネの銀色の髪が、瞳が、灰色に変わってしまっている様を見て、胸を痛めた。 だが、それでもやはり、セレネは美しく、彼女の優しく やわらかな微笑は以前と少しも変わっておらず、その事実に、瞬の心は僅かながらではあったが慰められた。 (セレネ様も、ヘリオスと同じように、恋のために輝かしい月神の座を惜しげもなく捨ててしまったの……?) 光輝と栄光に包まれていた神が、何の力も持たない人間のために、なぜそこまでできるのだろう――数百年の間 考え続けて答えを見い出せないままの問いを、シュンは心の中でもう一度自分に問いかけてみたのである。 答えは無論、シュンの中にはなかったのであるが。 セレネの変わらぬ美しさは恋の故なのかと思いつつ、シュンは彼女をヘリオポリスに迎え入れた。 そんなシュンを見て、セレネが――セレネもまた 目をみはる。 「シュン……あなた、シュンなの……」 セレネが、姿だけは銀色から灰色に変わってしまったように、長い年月はシュンの姿もまた変貌させてしまっていた。 かつて快活に走りまわっているシュンの肩に落ち着くことなど滅多になかった緑の髪は、今はつややかにその背に流れ、人間としての務めをすべて放棄せざるを得なくなったその頬や指は雪よりも白く滑らかになり──神ならぬ身に神以上の美しさが備わっているとしか言いようがないほど、シュンは美しく変わってしまっていた。 だが、セレネは、シュンが美しければ美しいほど、その姿に痛ましさを覚えてしまったのである。 非の打ちどころのないほど完壁な美を備えたものが魅力的とは限らない。 以前のシュンの、あの生き生きとした薔薇色の頬も、ちょっとしたことで千変万化する豊かな表情も、そして、何より誰かに恋をし、愛されている喜びと戸惑いに揺れていた明るい海緑色の瞳も――セレネは 今のシュンの上に見い出すことができなかった。 神のまとう衣、静かな立居振舞い、長い生が瞳に深みを増し、確かにシュンは他のどんな女神より美しくなってはいたが、セレネは、以前の屈託なく笑い、涙ぐみ、小栗鼠のようにヘリオポリスの広い庭を走りまわっていたシュンの方が、今の瞬より ずっと輝いていたと思わないわけにはいかなかった。 そして、なぜシュンはこんなふうに変わってしまったのか──と考えて、彼女は暗い思いに捉われた。 「あ、シュン。エンデュに会うのは初めてね。エンデュミオン──オリンピア競技の行なわれるエリスの地の王家に連なる青年なの」 兄が太陽神としての神格を捨ててまで守ろうとした恋が幸福に包まれていないのかもしれない──。 そんなことを考えたくなくて、セレネはシュンの変貌に言及するのをやめた。 代わりに、自分の傍らに立っていた金髪の青年を話題にのぼらせる。 シュンは、形だけの微笑を作り、それをエンデュミオンに投げかけた。 「初めまして。とても美しい方ですね。ヘリオスから太陽神の神格を譲り受けたアポロンが、今は以前のヘリオスのような黄金の髪になって ボイボス・アポロンと呼ばれ、最も美しい男神と言われているそうですけど、彼にあなたを見せてやりたい。あなたを見たら、 それは、セレネが月神の神格を捨ててまで永遠を与えた相手に、世辞を言わずにもいられまいと考えての言葉だった。 言いながらエンデュミオンの顔を見あげたシュンは、ふいに 軽い目眩いを覚えた。 どこかで出会ったことがあるような──そんな気がして。 しかし、シュンはすぐに、そんなはずはないと、自分の内に浮かんだ思いを打ち消したのである。 世辞が世辞にならないほど、エンデュミオンは美しい青年だった。 神格放棄前のヘリオスに勝るとも劣らないほど華やかな金色の髪、空の色をそのまま写しとったような色の瞳、“青年美の理想”という呼び名がアポロンなどよりはるかにふさわしいと思える若々しい肢体――セレネは、まさにエンデュミオンの最も美しく生気と活力に満ちた時期に、彼の時間を止めたのだということに、シュンは疑いをはさまなかった。 これほど美しい青年に、一度でも会ったことがあるなら、忘れるはずがない。 だいいち、彼は この数百年の間、ヘリオポリスから遠く離れたラトモスにいたはずである。 シュンが彼に会ったことなどあるはずがなかった。 (……きっと、彼の金髪が、以前のヘリオスを思い起こさせて、それで、そんな気になったんだ。ヘリオスの愛がどういうものなのか、何の疑いも抱かず、恋に有頂天になっていた頃の自分に戻ったような気がして……) シュンは、そう自身に言いきかせたのだが、以前のヘリオスと重ね合わせるにしては、彼とヘリオスの印象は全く違っていた。 太陽神ヘリオスは、生みかつ知る神、ゼウスなどよりはるかに父なる神の立場に近く、シュンにとっては、恋人としての情熱と共に父や兄のような優しさを兼ね備えた存在だった。 ところがセレネが伴ってきた金髪の青年は、明確に無表情で、不愛想で、明るい青色をしているにもかかわらず冷めた瞳をしていた。 もっとも、それは、この華やかな青年に軽薄な印象を与えることを阻むのに役立っているようだったが。 ともあれ、彼は、シュンの世辞にも無言で、微笑一つ返してよこさなかった。 会話を成立させることができず、シュンがたじろいだところに、折良くヘリオスがやってくる。 兄の傍らにひどく自然に寄り添ったシュンを見て、セレネは少しばかりの安堵感を覚えた。 少なくとも兄はまだ、シュンの愛を失ったわけではなさそうだ──と。 |