「シュンは誤解しているんだ」 一昼夜が過ぎて目覚めた時、シュンは、少しずつ室内に射し込み始めた朝の光を受けて金色に輝く漆黒の髪を見たような気がした。 瞼が妙に重く、自分が確かに目をあけて、その映像を視界に捉えたのかどうかには、シュン自身にも確信を持つことができなかったのだが。 「私がシュンのために すべてを捨てたのだと、シュンは そう思っている。だが、そうではないんだ」 「ああ、そうじゃない。貴様はすべてを手に入れるために、余計なものを捨てただけだ。シュンが貴様に負い目を感じる必要などないんだ。貴様はシュンを手に入れたのに、シュンは貴様にすべてを奪われてしまったんだからな。家族も友人も、生きる場所も、限りある命も――」 エンデュミオンがヘリオスを責めている。 シュンはエンデュミオンに、ヘリオスを責めるのをやめてほしかった。 「シュンのために何かを捨てることが シュンヘの愛の証になるのなら、俺だってすべてを捨てることができる。だが、今の俺が持っているものといったら、この命しかないんだ。永遠に、夜の国の闇のように永遠に続く命しか……。だから、貴様が憎いんだ。シュンに何かを与えたわけでもないのに、シュンを自分に縛りつけている貴様が。シュンは、そんなことを望んだことは一度たりともなかったはずなのに……」 「――」 ヘリオスは無言だった。 何を言っても言い訳と取られることが嫌だったのかもしれないし、何かを言うなら、それは、エンデュミオンに対してではなく シュンに対して言うべきことだろうと思っていたからだったのかもしれない。 いずれにしても、シュンは、エンデュミオンにそんなふうにヘリオスを責めてほしくなかった。 太陽神としての神格を捨てることが、ヘリオスにとって それほど容易なことだったとは、シュンに思えなかったのだ。 太陽神としての自負と誇りが、ヘリオスにとって無価値なものだったはずがないのである。 少なくともシュンに出会うまで、その誇りが、この世界に何者かとして存在することの意味を彼に与えていたのだから。 徐々に、意識と身体とが覚醒してくる。 シュンが力を入れて指先を動かすと、エンデュミオンとヘリオスは目ざとくそれに気付き、二人同時にシュンの名を口にした。 「シュン!」 重い瞼を開き、エンデュミオンの眼差しのありかを探すと、シュンはその視線を捉えて、微かに首を横に振った。 「だめ。ヘリオスを責めるなんて」 「シュ……」 シュン自身にヘリオスを責めることができず、そして、シュン自身にヘリオスを責めることを禁じられてしまったら、へリオスを責められる者は、この世に誰もいなくなってしまう。 エンデュミオンは、シュンの言葉に憤りを隠せなかった。 そして、ヘリオスはヘリオスで、神の無思慮から自分がシュンに与えた苦痛を瞬に責めてほしいと、心の奥底では望んでいた。 太陽神に太陽神の神格を捨てさせたことを負い目に思い、シュンは正直に自分の感情を恋人にぶつけることをしなくなった。 それは、ヘリオスにはひどく悲しく やるせないことだった。 「ごめんね。僕、二人に心配かけちゃった」 「私のせいなのか? おまえがこんなことになってしまったのは」 シュンの枕許に立つヘリオスが、つらそうな目をしてシュンに尋ねる。 シュンは はっきりと、その首を横に振った。 「違うよ。ヘリオスのせいじゃない。誰かが僕を呼んでたんだ。目を閉じて、ヘリオスの声もエンデュの声も聞こえないところでなきゃ会えない人が」 「……? 誰のことだ」 ヘリオスに尋ねられ、だが、シュンはそれには答えなかった。 代わりに、上目使いにヘリオスを見詰め、遠慮がちに彼に告げる。 「ヘリオス。ちょっとだけ……ちょっとだけ、エンデュと二人で話をさせてくれる?」 「……」 シュンの申し出に、ヘリオスは微かに唇の端を引きつらせた。 だが、彼はすぐに無言で、シュンの枕許に置いていた手を離し、その場を立ち去ろうとした。 ヘリオスはこの一日の間、シュンを失うかもしれないという怖れ――他の男に奪われるのではなく、存在そのものを失うかもしれないという怖れ――に 苛まれ続けていた。 その怖れに比べたら、エンデュミオンにシュンを奪われることなど、毫も怖ろしくない怖れだった。 それでも、肩は不安と怒りに震えたが。 シュンが、そんなヘリオスの感情を見越したように、彼を引き止める。 「ヘリオス。二人きりにしてくれなくてもいいの。ただ、ヘリオスにはわからない話をすることになるかもしれないっていうだけだから」 立ち去りかけていたヘリオスが、シュンの言葉を訝りながら振り返る。 一度ヘリオスと視線を交わらせてから、シュンは寝台の上に身体を起こし、静かな口調でエンデュミオンに告げた。 「あの女の子――僕の夢の中にいるあの女の子がね、多分、僕を呼んでいたんだ。彼女は僕たちよりずっと昔の時代に生きていたんだって。好きな人がいたのに、その人を神に殺されて、神を憎んで恨んで死んでいったんだって。彼女、エンデュと僕が同じ時間に生きていることを、もう何百年も前から知ってたって言ってた。彼女と一緒にいた金髪の男の人が、エンデュのことなら何でもわかるんだって」 「……」 あの二人は何者だと尋ねかけ、エンデュミオンは、しかし、そうするのをやめた。 尋ねなくても、既に自分は その答えを知っているような気がした。 「あの女の子にね、『君は誰』って訊いたら、僕自身だと答えたんだ。彼女は、僕の無意識の中にいる存在なんだって。彼女――ううん、僕自身なのかな。僕の中にいるあの女の子もね、エンデュと同じように、もう神を憎む気持ちはないんだって。神とか運命とか過去の出来事とか、そんなものに固執していても 人は幸福にはなれなくて、ただ自分自身の意思だけが 自分を幸福にできる唯一のものだと気付いたから。だから彼女は もう消えるって。彼女とは違う一人の人間として、僕が自分で考えて、そして、自分で決めた道を歩むのが、僕という人間の義務で権利なんだって」 夢の中の物語を語るシュンの口調は 穏やかで やわらかい。 その優しい感触が、むしろ、シュンの決意の固さを示しているように、エンデュミオンには思われた。 「それで……おまえは自分で決めたのか。自分が自分の生をどうするのか」 「……うん」 やわらかい微笑とやわらかい声音だが、それは、既に意を決した人間の、神にも曲げられない強い力に裏打ちされたものなのだろう。 『おまえはどちらを――誰と共に生きる道を選んだのだ?』 と尋ねることを、エンデュミオンに疇躇させるほど、シュンの瞳には強い光が宿っていた。 シュンが、今度はヘリオスに視線を向け、やはり穏やかに、だが はっきりした声で告げる。 「ヘリオス。僕ね……僕、人間なんだ。そしてね、多分、ヘリオスが愛してくれたのも、人間の僕だったと思う」 「ああ、その通りだ」 ヘリオスが、ゆっくりと深く頷く。 「ヘリオスはきっと、僕に永遠を与えたことを後悔した。永遠を重荷に思う僕を見て、ヘリオスは僕以上に苦しんだ。僕は僕自身の苦しみに手一杯で、そんなことにすら思い至らなくて、だから、僕はいつもヘリオスを傷付けてばかりいたと思う」 「そんなことはない。たとえそうだったとしても、私にとっておまえは、ただ一つの救いだったんだ。おまえは苦しみより喜びを、より多く私に与えてくれた」 「……」 シュンがまた、やわらかく、それでいて明確な線で描かれた不可思議な表情を浮かべる。 「僕もそうだったよ。今まで気付かずにいたのが不思議なくらい。僕はいつも幸福だったのに」 幸福とは、現象ではなく意思なのだ。 幸福を幸福だと気付き認める心があって初めて、人は幸福になれる。 長いことその心を見失っていた自分自身を、シュンは悔やんでいた。 その心をいつも胸に抱いていられたら、もうずっと以前に、もっと素直な気持ちで自分は現実に向き合うことができていたはずなのに――と。 シュンは長く吐息し、そして 目を閉じた。 「ヘリオス、エンデュ、ごめんなさい。僕、ちょっと疲れたみたい。一人にしてくれる?」 シュンに言われ、ヘリオスとエンデュミオンは少しばかり不安げに、シュンを見詰めた。 しかし、すぐにシュンの言葉に従う。 二人が部屋の扉を閉じようとした時、シュンは二人に、またあの不可思議な微笑を投げかけてきた。 「ありがとう。ヘリオス、エンデュ」 意外なほど屈託のない声で、シュンが二人に告げる。 その日、シュンはヘリオポリスから姿を消した。 自分の心だけに従って自分の生を生きるために、シュンは、神と神の契約をヘリオスと交わした男の許に向かったのである。 |