南の都ヘリオポリスから、はるか北にある神々の聖座オリュンポス山まで、人間の足で歩いてどれほどかかるのか、シュンには見当もつかなかった。 ヘリオスかセレネに頼めば 一瞬のうちに辿り着けることはわかっていたのだが、今度ばかりはシュンは自分の足で その場所に行かなければならなかったのである。 オリュンポスへ行く理由を尋ねられた時、シュンはその理由をヘリオスに告げることができそうになかったから。 ヘリオポリスは南北に流れる大河の岸一帯に広がる都である。 シュンがヘリオポリスを出てしばらくは、豊かな河に沿って緑の森が続き、獣たちも豊富な食糧に満ち足りているのか皆穏やかで、行程は順調だった。 旅の二日目に立ち寄った村で、シュンは自分が身に着けていた そして、村人が止めるのも聞かず、長い髪をばっさりと切り落とし、旅を行くのにふさわしい身軽な格好になった。 ヘリオポリスのある大陸が終り、荒涼とした砂丘の多い別の大陸に辿り着くまでに、シュンはかなりの日数を費やした。 土地が変われば、人も気候も変わる。 盗賊まがいの集団に捕らえられかけたり、荒天のために足止めをくったりしながらの、決して楽ではない旅を、シュンは懸命に続けたのである。 「ヘリオスたち、心配してるかな……捜してるかな……」 シュンに与えられた永遠の命は、シュンを水も食料も眠りすら必要としない身体にしていたのだが、だからといって夜目が利くわけでもなく、夜は歩みを止めるしかない。 そんな時シュンが思いを馳せるのは、旅のこれからではなく、ヘリオポリスでシュンを思ってくれているだろう人たちの面影だった。 人家も樹木の一本もない砂だけの世界、月の光を受けた波の輝く海のほとり、遠くに雪を頂く山を見渡せる切りたった崖の端――そのどこにいても、満天の星の下、シュンは彼等を思った。 ヘリオスの名を呼べば、優しい思い出がシュンを包み、エンデュミオンの名を口にすれば、熱い思いに胸がときめく。 たとえば、望んでもいなかった永遠の中に放り出されたこと、自分の心のままにエンデュミオンの胸に飛び込めないこと――そんな思いは、不思議とシュンの胸に去来してこなかった。 そんなふうに――まるで胸の おそらく、これまで彼等と過ごしたどんな一瞬よりも今、シュンは自分の内にあるヘリオスやエンデュミオンヘの愛を感じていた。 自分の生きる方向を、他の何者の力にも左右されずに自分で考え、自分で決めるということが、これほどまでに心を軽くすることだとは、シュンは思ってもいなかった。 思ってもいなかったその解放感の中で、シュンは、誰かに愛されていること、誰かを愛することの豊かさを、初めて実感できていたのである。 (変だね……。僕、死ぬためにオリュンポスに向かっているのに、こんなに幸せな気持ちでいられるなんて……。人間って、そういうものなのかな。未来に必ず死があることがわかっているのに、笑うこともできる……) シュンは、オリュンポスに行き、ゼウスに頼むつもりだった。 自分に与えられた永遠の命と引き換えに、ヘリオスの太陽神としての神格を彼に返してくれるようにと。 初めてヘリオスと会った時、彼が言った人間の転生――生まれ変わり――が真実なら、今シュンとしての人生が終わっても、自分は 再び別の人間としてエンデュミオンに会うことはできるかもしれない。 その時エンデュミオンが自分を愛してくれるかどうかは わからないが――それどころか、自分を憶えていてくれるかどうかさえ わからないが――少なくとも その時 自分は ヘリオスに負い目を持たない人間として、彼の前に立つことはできるだろう。 叶わぬ夢なら、それはそれで構わない。 何度でも、いつまででも、夢は見続けられる。 人間は、生きている時間は有限でも、おそらく無限に夢を見ていられる存在なのだから――。 果てしなく続く砂丘の陰で、それこそ無限の星空を眺めながら、シュンがそんなことを考えていた時、彼の耳に突然、低い獣の唸り声が飛び込んできた。 こんな砂だらけの土地にいるはずのない、夜行性の獣の金色の目が、不気味にシュンを見詰めている。 「……黒豹?」 防寒のためのマントで身体を包み、砂の上に座り込んでいたシュンは、そのままの体勢で少し後ずさった。 永遠の命を得て、病や怪我では死ねない身になってはいたが、身体そのものが鋼鉄になったわけではない。 獣の爪に引き裂かれ、その身を食されてしまったら、自分がどうなるのか、シュンには見当もつかなかった。 しかも、シュンは、何があっても自分が死ぬことはないのだと、護身用の武器の一つも持っていなかったのだ。 緩やかに砂の丘がどこまでも続く大地には、人が隠れることのできるような場所もない。 闇に輝く二つの金色の光は、足音もたてずにゆっくりとシュンに近寄ってくる。 シュンはごくりと息を飲み、次の瞬間、固く目を閉じてしまっていた。 (エンデュ……!) 黒い獣が、シュンに踊りかかる。 途端にシュンは、重力を感じなくなった。 |