白光に、シュンは包まれていた。 「どうだ? 人間など、神はおろか一匹の野生の獣に対してすら、何の力も持たない無力な存在だ。人間は、神の加護なくしては存在できない脆弱な生き物なのだぞ」 シュンの考えていることを見透かしたような言葉が、辺りに響く。 なぜか、その声の主が大神ゼウスだと、シュンにはすぐわかった。 シュンがゆっくりと立ちあがり、振り返る。 シュンを包んでいる白い光は陽光でも月光でもなく、炎によるものでもなかった。 そこは白い石が敷き詰められた、どうやら広大な神殿らしく、周囲に満ちている光は、その石自体が発しているもののようだった。 「ここ……は……僕は なぜ……」 巨大な柱は確かに立っているが、それらを支える天井が本当にあるのかどうかもわからないような神殿の広間に、シュンはいた。 上を見上げてみたのだが、そこには雲のような霞のような何かがあるだけである。 まるで巨人族の神殿に小さな子供が迷い込んだような錯覚を覚えるほど壮大な建物の広間の中央で、シュンは呆れ果てて苦笑を洩らした。 もしこれが、神の威信を示すために建てられたものだというのなら、随分馬鹿げたものを建てたものである。 持てる力を示したいのなら、せめて誰かの役に立つことで示せばよいものを、とシュンは思った。 「オリュンポス神殿だ。ここに来たかったのだろう、そなた」 冷たい――というより、人間を、シュンを見下したような声が、再び周囲に響く。 ホールの一段高い所に大きな岩をくりぬいたような、それでいて雲のような柔らかさを感じる材質でできた玉座があり、そこに何者かが腰掛けていた。 姿はあるが、若いのか老人なのか、髪の色も瞳の色も肌の色すらわからない。 硬質的な響きを持っている声だけが明瞭にシュンの許に届く。 姿をはっきり見せないのも、この神殿同様、対峙する相手に威圧を与えるための手段なのだろうか。 そう思い至ると、シュンは少し冷静さを取り戻した。 目を凝らし神の座を見詰めているうちに、やがてゼウスの姿の輪郭がはっきりしてくる。 ヘリオスと同じほどの体格の、だが、壮年の姿をし、冷たい目の最高神――感情を感じさせない、蛇のように酷薄そうなその瞳に、シュンは身体を震わせた。 「私の姿が見えるのか」 正体のはっきりしないものへの漠然とした怖れのためにシュンが身を震わせたのではないことに気付いたらしいゼウスが、シュンに尋ねてくる。 「――神というのは、皆 若々しい姿をしているのだと思っていました。もしかして、神々の父としての威厳を示すためにわざとそんな姿を作って、僕に見せているんですか?」 シュンはゼウスの姿を見詰め、答えと一緒に質問を返した。 が、ゼウスはそれに答えなかった。 代わりに、苛立ちを含んだ一人言のような怒声を響かせる。 「これだから、人間というものは油断がならないのだ……!」 「?」 シュンはゼウスの怒りの訳がわからず、僅かに首をかしげたのである。 シュンのその様子がまた、ゼウスの気に障ったらしい。 神々の中で最高位に位置する大神の前で、畏れかしこまる様子も 怯える様子も 緊張した様子も見せない人間に、ゼウスは苛立っていた――らしい。 「神を畏れる者の目には、私の姿は見えぬのだ」 ゼウスは、それでも、必死に怒りを抑えようとしているようだった。 あまり抑揚のないゼウスの声は、聞きようによっては穏やかなものだったのだが、むしろその声音には、抑えようにも抑えきれない冷たい怒りが満ちているように、シュンには感じられた。 「そなたは、神が人間に勝る強大な力を持っていることも、神が明確に人間に優越する存在だという事実も全く意に介していない。私は、なぜ そなたがヘリオスに何も言わずヘリオポリスを出たのかも、その二日後には さっさと美しかった髪を切ってしまったことも、キプロスの島を臨む海の側で盗賊共の目をうまく逃れたことも、みな知っている。闇の中で、心細さに誰の名を幾度呼んだのかも、だ。そなたを、あの獣の前からここに運んだのも、神であるこの私なのだぞ」 神の力を誇示しようとするゼウスの言は、しかし、逆に、ゼウスが人間の力を人間以上に認め、かつ脅威と感じていることを物語っているように、シュンには感じとれた。 神々の父たる存在が、たった一人の小さな人間に向かって、自らの優位性をくどくどと説いているのである。 神の威信を保つために腐心しているゼウスが、それでいて、その明晰さゆえに人間の力を認めざるを得ずにいるのだ。 偉大な神々の父が、シュンは気の毒になってきてしまった。 人間に優越する神の居場所、神としての尊厳――そんなものを守ることが、それほど大事なのだろうか。 誰かが――たった一人でもいい、誰かが――自分を必要としてくれていたら、それだけでも人には生きて存在する意味がある。 そう思うことで、自分の生を肯定し続けてきたシュンには、ゼウスの苦慮は贅沢な苦悩としか思えなかった。 (でも……その人たちから――僕を必要としてくれている人たちから、僕は、自分から離れようとしている……) そう思うと、シュンには、自分がゼウスよりも傲慢で、ゼウスよりも哀れな生き物のように感じられた。 だが、シュンの中には、エンデュミオンを好きだという気持ち、いつも彼と共にいたいと願う気持ちと同じほどの強さをもって、ヘリオスの誇りを傷付けたくないという思いが、確固として存在していたのである。 そのどちらかを切り捨てることは、シュンにはとてもできそうになかった。 「頼みがあって、ここに来ました――いえ、ここに向かっていました。先程の話からすると、僕の頼み事の内容もご存じのようですね」 今はもうすっかり姿の見える大神に、シュンは臆する様子も見せずに話しかけた。 それで、ゼウスの声が 更に気分を害した者のそれになる。 「その口のききよう! そなたは、神を、神々の頂点に立つこのゼウスを、全く怖れていないようだな。しかも、祈りではなく、望みでも願いでもなく、頼みだと !? 」 「僕はちゃんと代価を支払います。ささやかなものですけれど」 シュンの中に怖れがないのは、これまでゼウス以外のたくさんの神々の人間的な部分を多く見てきたからだった。 そして、それ以上に、シュンが死を覚悟していたからだった。 自身の破滅・滅亡を怖れない人間に、神の存在や その力が どれほどの重みをもって存在できるだろう。 「申してみよ」 シュンのそんな思いがわかってしまうことが、ゼウスの不幸なのかもしれない。 ゼウスは冷めた声で、シュンに、その“頼み”を告げるよう促した。 シュンが少しく緊張感を取り戻し、口を開く。 「ヘリオスに太陽神としての神格を返してください。そして、できることなら、ヘリオスから僕に関する記憶をすべて消し去ってください。代わりに、僕に与えられた永遠を返上します」 「確かに、ささやかな代償だな」 感情の読みとれないゼウスの呟き――ゼウスの瞳が銀色だということに、シュンは初めて気付いた。 「そうすることで、あなたや他の神々を怖れない人間を一人、この世から消し去ることができます。人間の力を侮っていないあなたなら、多少はそのことに価値を見い出してくださるのではないかと思ったのですが」 「そなたの言う通りだ。そなたのような人間は、私が最も怖れるものだ。しかし、ヘリオスに太陽神としての神格を返し、そのためにヘリオスが再び手にすることになる力も強大なものとなるだろう」 「太陽神ヘリオスの力を怖れて、人ひとり殺すこともできないんですか。大神ゼウスともあろう方が」 「……」 非力な人間が何を言うか――と、ゼウスは憤っているのだろう。 そう、シュンは思った。 が、そうではなかったらしい。 ゼウスの薄い唇から次に出てきたものは、憤りなどという感情を通りすぎてしまった者の声と言葉だった。 「――なぜそなたは死を望むのだ。生きて この世に存在していればこそ、愛する者を抱き、抱かれることもできるのだぞ。二人の男に愛されているのなら、二人の男に抱かれればよいではないか。そなたを失うことを思えば、二人はその状況に甘んじるだろう」 ゼウスは、真実 シュンの心が理解できずに、他意はなく問うたのだろう。 彼は、シュンの心を知っていながら、理解できずにいるのだ。 シュンが、怒りにも似た思いに、かっと頬を上気させる。 それが神の――否、ゼウスの――合理性なのなら、それは人間の心とは相容れないものだと、シュンは思った。 「僕は死を望んでいるわけではありません。本当は、永遠を放棄しようとしているのでもない」 「では、何を望む。永遠の命と若さ、美しさと愛、すべてを手にしていながら、そなたは、それ以上 何を望むというのだ」 人間が望むこと――究極の、そして平凡な人間の望み――それがゼウスにはわからないのだろうか。 「僕は幸せになりたいだけなんです」 シュンの望むもの――その答えを聞いた途端、ゼウスが 今度こそ激しく声を荒げる。 その声は、シュンには理解できない怒りでできていた。 「なんという傲慢、なんという貪欲だ。幸せになりたいだと !? この私ですら、幸福な一瞬など手に入れたことはない。幸せにだと !? これだから人間というやつは! まったく、人間というやつは! なぜ、より以上を望むのだ。なぜ変化を望むのだ。その結果がどうだ。神への畏敬を忘れ、地上には争いばかりが満ちている……!」 「――ええ。神々の世界と同じように」 怖れを知らぬとしか言いようのないシュンの反駁は、逆にゼウスの怒りを瞬時に静めてしまったようだった。 「……永遠を終わらせたいというのは、心底からの願いらしいな。私の同情を得ようとしているのではなさそうだ」 “死”への恐怖という枷がない人間は、神への怖れもない。 そのような存在はこの世から消し去ってしまった方が、神々の権威を保つのに役立つだろうことは、自明の理だった。 しかし、そういった人間がシュン一人ではないということが、ゼウスをためらわせていたのである。 今、北の国、南の町、東方の都や西方の村、至る所に、人間の力を信じる人間が次々と現れてきていた。 その流れは、ゼウスの力をもってしても、押しとどめようのないものなのかもしれない。 神々が巨人族を滅ぼして現在の地位を手に入れたように、神々もまた、世界の統治者としての座を人間に奪われる時がくるのかもしれない。 そして、おそらく、いつの日か、人間もまた人間以外の何者かに、その場所を奪われる時がくるのだ――。 いずれにしても、神々を統べる者として、その時の到来を少しでも遅らせることが、神々の父ゼウスの義務だった。 神々の滅びる時の到来がわかっているからこそ、神々の父としての義務は、ゼウスには一層重いものだったろう。 長く深く嘆息し、ゼウスは、幸せになりたいと願う一途な目の人間を見おろした。 |