とある4月の月曜日の朝。
叩いても揺すっても蹴飛ばしても いっかな目覚めようとしない兄を、仕方がないので一人家に残してきた瞬は、ぽてぽてと朝の通学路を歩いていた。
空は青く、風は暖か。どこからか歌うようなヒバリの声が楽しげに響いてくる。
(兄さん、『すぐ起きる。先に行ってろ』なんて言ってたけど、ほんとに起きてくれるのかな……)
という心配事さえなければ、いたって平和な仲春の朝だった。

さて、ところで、往々にして暖かくなってくると、世間には変なモノが湧いてくるものである。
とはいえ、学校まであと徒歩5分の場所で見付けたそれ・・を、瞬は最初は変なモノだとは思わなかった。
それは、金色の髪と青い瞳を持った、文句のつけようがないほどの美形であるところの若い異人さんで、どうやら道に迷っているらしい。
瞬は持ち前の親切心を発揮しようとして、だが、しばし ためらったのである。
彼が、『 May I help you おこまりですか ?』で通じる言語圏の人間なら力になることもできようが、もし英語の通じないお国の人だったらどうしよう――という不安を覚えたせいで。

(でも、困ってるふうだしな……)
目の前に何やら困っている様子の人間がいる。
そして、『義を見て せざるは勇なきなり』と、かの孔子も言っている。
やはり放ってはおけない。
学生鞄をぎゅっと抱きしめ、なるようになれと覚悟を決めて、瞬はその異人さんににっこりと笑いかけてみた。
瞬がためらっていたのに気付いていたらしい異人さんが、その“にっこり”を見て、ぱっと瞳を輝かせる。
彼は、至極明るい表情を浮かべて、瞬の側に近付いてきた。

Bonjour,mademoiselleこんにちは、お嬢さん !」
「は……?」
瞬は、本音を言えば、心臓が止まるかと思ったのである。
もちろん、それは、彼の使用言語がフランス語であるらしいことがわかったためでも、女の子に間違われたことに戸惑ったからでもない。
それは、やたらめったら軽っぽい『ボンジュール、マッマゼ〜ル』に続いて、更に一層軽っぽく、
Quel amourd'enfantなんて可愛らしい! Beau comme l'amour愛さずにいられない!」
とかなんとか訳のわからない単語を羅列したかと思うと、突然瞬の手を取り、ご丁寧にもそれぞれの指先に――つまりは5回も――与えられたフランス男のキスのせいだった。

「わあっ !! 」
びっくりしてフランス男から引ったくるように取り戻した自分の右手を、瞬は慌てて自分の背後に隠した。
ほとんど条件反射的で 同時にもう一方の手も一緒に背にまわしてしまい、必然的に瞬が抱えていた学生鞄がストンと地上に落下する。
完熟トマトの一歩手前くらいまで赤面している瞬を、フランス男はしばしの間 不思識そうな顔をして見詰めていたが、やがて一人でふむふむと頷くと、彼は瞬の鞄を拾いあげた。
「日本人の感情表現は我が国のように大らかではない」
旅行ガイドの一節を、自らに言いきかせるように呟いてから、彼は瞬に向き直った。
瞬が、少し、後ずさる。

購入したばかりでぶかぶかとは言え、それでも一応 男子生徒用のグレイのブレザーを着て、瞬は、自分が男だということを一生懸命主張していたのである。
同性にこういう扱いをされることには、結構プライドが傷付いた。
拾いあげた鞄を、フランス男が一向に持ち主の手に返そうとしないので その場を立ち去ることもできず、唇を真一文字に結んで、瞬がその男を睨みつける。
瞬の睥睨に会っても、フランス男の方はにこやかなものだった。
「失礼した。君がとても可愛らしいので、つい我を忘れてしまった。あー、忠律府学園高校に行くのには、こちらの道を行けばいいのだろうか?」
意外に確かな日本語を口にされ、瞬は、ほんの少しだけ警戒心を緩めたのである。
狂人の類ではないらしい。
道に迷って 誰かの助力を必要としているのも事実のようだった。
瞬は、なんとか気を取り直し、彼に尋ねてみたのである。

「忠律府学園にご用ですか」
Oui ウイ。俺は、フランスから忠律府学園に留学してきました」
「ああ、そうなんですか」
となれば、どうやら学年と歳は上のようだったが、今日から彼は自分の同窓生ということになる。
瞬は、いらぬ波風を立てるようなことは避けようと思った。
「じゃあ、学校までご一緒しましょう。僕、忠律府学園の生徒なんです。入学して、まだ3日目だけど」
Merci Beaucoupありがとう。君は、可愛いだけでなく、とても親切。名前は?」
言いながら、金髪男は瞬の鞄を手にしたまま、空いた方の手を案内人の肩に置き、彼を促して通学路を歩き始めた。
「瞬……ですけど……」
人様に持たせたままの鞄と慣れ慣れしく肩にあるフランス男の手を気にしつつ、瞬が答える。
「シュン! とても可愛い名前だ。俺は氷河という」
「ひょうがさん……ですか……」

まるで持ち逃げされるのを警戒しているようで、鞄を返してくれと迫ることができない。
目的地が同じな上、同行者が そこに行くのが初めてとなれば、自分だけ さっさと道を急ぐこともできない。
結局 瞬は学校までそのフランス男に鞄を持ってもらうことになってしまったのである。
「こんな重い鞄を 瞬のような子が持って歩いていてはいけない」
職員室のドアの前で、氷河が鞄と一緒に返してよこしたその言葉に、瞬は嘆息した。
親切にしてもらったというよりは、馬鹿にされたような気がする。
引きつった笑みを口許に浮かべ、それでも素直に礼を言って、瞬は彼と別れたのだった。






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