「おい、瞬! 今、隣りのクラスまで来てるらしいぞ、噂の留学生!」 てっきりグラウンドか体育館で走り回っているのだろうと思っていた瞬の幼馴染み兼クラスメイトの星矢が、大声でわめきながら教室に飛び込んできたのは その日の昼休み。 (噂の留学生――って、 瞬は 今朝方の出来事を思い出し、それからすぐに、おそらくあのフランス男が、控えめで慎み深い日本人には理解の難しい突飛な真似でもしているのだろうという推察を為した。 何にせよ、あの妙ちくりんな男とはもう関わり合いを持ちたくないと思っていたので、瞬は星矢の報告に対するコメントを故意に避けたのである。 あまり興味を示してくれない幼馴染みに、星矢は少しばかり肩すかしを食らったような顔になった。 が、それも一時のこと。 彼は すぐに立ち直り(?)、再び気負い込んで 噂の留学生の報告を始めた。 「なんかさー、今朝学校に来る途中で、すげー可愛いコに一目惚れしたんだってよ。んで、三年の教室から二年一年とそのコを捜してここまで来たらしいんだけど、面食いミーハーの女共がぞろぞろと金魚のフンみてーに奴の後ろに付き従ってて、とんでもねーシンデレラ捜しになってるんだ。四列縦隊30メートルの女の列!」 「皆、余程 暇を持てあましていると見える」 多少興奮気味の星矢の後ろから、ふいに 低くドスのきいた男の声が響いてくる。 兄の登場に気付き、瞬はぱっと顔をあげた。 「腹が減ったが、金がない。瞬、小銭を貸してくれ」 星矢の話に何か引っかかるものを覚えなかったと言えば嘘になるが、この場合、ほとんど他人のフランス男のシンデレラ捜しより、血の繋がった兄の空腹の方が、瞬には より重大なことだった。 ゆえに 瞬は、あえて 星矢の話を無視した。 「兄さん! 今朝は間に合ったんですか?」 「いや、遅刻した」 気に病んだふうもなくあっさり言って、一輝が瞬の目の前にずいと手を伸ばしてくる。 瞬は呆れたように肩をすくめてみせてから、鞄の中に入れておいた小銭入れを取り出した。 「お弁当は食べたんですか」 「食った。2時間前に」 「だろうと思いました!」 自分がこの高校に入学するまで、いったい兄はどこから食事代と問食代を捻出していたのだろうと思うと、多少の悪寒を覚えないでもない瞬だったのだが、見た目の粗野ほどには悪党でもない兄を知っていた瞬は、大人しく、兄の大きな手の平に五百円玉を一個載せてやったのである。 「ちゃんと返してくれないと、僕はそのうちに兄さんの食欲のせいで破産してしまいま――」 「 「――すよ……」 自らの破産予告を、瞬は、4、5時間前に出会い、そして 別れた某金髪男の腕の中で言い終えた。 (え…… !? ) 平和な日常に浸っていたはずが、気が付いたら変な男に抱きしめられていた――というのも、なかなか恐い話である。 「瞬、会いたかった! 瞬という存在を知ってしまった今、瞬の姿の見えない場所にいるのは、俺にとっては拷問でしかない……!」 相変わらず流暢な日本語ではあったが、彼が口にした言葉の意味を、瞬は すぐには理解できなかった。 「ひ……氷河さん…… !? い……いったい どうし――」 「“さん”はいらない。瞬」 言葉は日本語でありながら、響きが甘ったるいフランス語である。 わざとらしく耳許で囁かれ、瞬は思いきり背筋に冷たいものを感じることになった。 「は……放してくださいっ!」 人前で濡れ場を演じて喜ぶ趣味を持ちあわせていなかった瞬は、氷河の腕の中で もごもごと懸命にもがいた。 が、瞬の“もごもご”は、あまり効を奏するものではなかったのである。 「瞬を放せ、この毛唐っ!」 どちらかといえば、兄一輝の腕力のおかげで、瞬はフランス男の腕から逃れ出ることができたのだった。 「俺の大事な弟に何をするか、この不埒者!」 「愛し合う二人を、君は無体にも引き裂くつもりなのか!」 「……」 いったい いつから自分はこのフランス人と愛し合うようになったのだろう? ――というのは、瞬にしてみれば当然の疑問である。 星矢が ほぼ真円に目を見開き、金魚のフンのミーハー女生徒がきゃーきゃーと喚声をあげる中、ただひたすらあっけにとられている瞬の目の前で、一輝と氷河が各々の背後に暗雲を立ち込めさせ始める。 可愛い弟に手を出してくる節操のない おフランス野郎の存在は、質実剛健日本男児には許し難いものだったし、人の恋路を邪魔する野暮な倭人は、恋に生きるフランス男の敵だった。 「瞬、さがってろ!」 言うなり、一輝が拳を構える。 途端に氷河はくるりと一輝に背を向けた。 『金と力はなかりけり』の典型なのかと、一輝は一瞬思ったのだが、それはとんでもなく大きな誤解だった。 訳のわからない展開に呆然としている彼の弟の両肩に手を置き、その両頬に交互にキスをして、 「瞬のために闘う。見ていてくれ」 などとたわけたことを口にする軟弱フランス男を、次の瞬間一輝は、思いきり しっかり はっきり明確明瞭に目の当たりにすることになってしまったのである。 「この野郎!」 机を二つ蹴飛ばして、異国の悪党の顔面めがけ 目にもとまらぬ速さで振り下ろされた一輝の拳は、しかし、空しく空を切った。 一輝の最初の攻撃を難無くかわした氷河が、軟弱男にあるまじき不敵な笑みを、その口許に浮かべる。 「恋人を守るだけの力のない男に、命をかけた恋などできようか! フランス男を舐めるなよ!」 外された拳を一輝が引く前に、氷河がその腕を掴み、弾みをつけて一輝の身体を廊下に向けて投げ飛ばす。 しゅたっ! と見事に着地を決めて、一輝もまたフランス男に にやりと余裕の笑みを見せた。 「少しは やるようだな」 「愛する瞬の前に、不様な姿はさらせない」 一輝の“にやり”が、ついつい“ひくひく”になる。 やはり日本人にはどこか ついていけない大陸的感覚だった。 「ええい、それ以上言うな、この毛唐めがっ! 虫唾が走るわっ!」 「愛している人を愛していると言って、何が悪い! 瞬は俺のすべてだっ!」 「だーっ! 男が人前でそんな歯の浮くようなセリフを平気で言うなと言っているんだっ!」 「愛する人を前にして何も言わずにいる男は、ただの馬鹿だぞ、日本人!」 「馬鹿は貴様だ、この24時間発情男っ!」 どういう訳かどんどん品がなくなっていく二人の熾烈な争いを横目で眺めつつ、瞬は、安全圏にある机に頬杖をついて嘆息した。 星矢が、頭をかきかき、その脇に寄ってくる。 「あいつ、父親が日本人なんだってさ。それで、読み書きはともかく、日常会話くらいは日本語ができるんだと」 「金髪、碧眼。劣性遺伝の塊りだね」 「一輝とマトモにやりあってるじゃん。恋する男はつえーなぁ」 「星矢、人事だと思ってるね」 「瞬も、人事みたいな顔してるぜ」 「そうでも思わなきゃ、生きてるのが つらいじゃない」 「そりゃ、そーだ」 喧嘩の部外者二人はともかく、当事者二人の戦いは熾烈を極めていた。 とりあえず、判定引き分けのまま、二人の大喧嘩は午後の授業開始のチャイムと共に終わったのだが、フランス男の情熱が、それで静まるはずもない。 瞬はその日、放課後の教室で、某フランス男の手から直接 一通の手紙を受けとった。 無言でその手紙を瞬の手に押しつけ、フランス男がさっと踵を返す。 こういう日はさっさと家に帰って寝てしまおうと思っていた瞬は、抱えていた鞄を机の上に戻して、とりあえずその手紙を読んでみたのである。 封を切った途端、おそらくシャネルかクリスチャン・ディオールの微かなコロンの香り。 いったい いつの間に調達したのか、あるいはそれは氷河が常に携帯しているものなのか、透かしの入った上品そうな便箋には、ミミズがのたくったような字で、水茎も麗しく(?)フランス男からのメッセージがしたためられていた。 『 おれのあいする瞬。 にっぽんでは、さいしょにてがみなどであいてのいこうをたしかめるところから はいっていかなければ、しつれいにあたるということなので、てがみをかいた。 このてがみをうけとったらすぐ、なかにわのまろにえのきのところにきてくれ。 きみだけをあいするひょうが 』
「〜〜っ!」 床に倒れ伏し、大声をあげて泣きわめきたいと瞬が思ったとしても、彼を女々しいということは誰にもできないだろう。 (い……いったい、これのどこが意向確認だっていうのっ!) おそらく氷河は、即席で一生懸命日本語を調べ、覚え、かつ練習したのであろう。 健気にも『瞬』というところだけが漢字で書かれている。 しかし、その手紙が意向確認ではなく、一方的な要求であることは、否定しようのない事実だった。 彼に、自分がどれほど“平和な毎日”というものを望んでいるのかを伝え、少し冷静になってもらわなければならない。 そう考えた瞬は、あの男の許になど死んでも行きたくないと訴える自分の足を懸命に なだめすかして、氷河の指定した場所に赴いたのだった。 |