中庭では、春だというのに なぜか枯葉が舞い散っていた。
ひとり、思い詰めた様子で、その枯葉の舞う様を見詰めていたらしい氷河が、校舎と校舎を結ぶ中庭の渡り廊下の出入り口に瞬の姿を見い出すと、感極まった様子で、彼の愛する人の許へ脱兎の勢いで駆けてくる。
「瞬!」
おそらくは 愛する人を その胸に抱きしめるために、彼は瞬に向かって両腕を差しのべてきた。
あいにく瞬は、その腕の中に飛び込んでいく気にはなれなかったが。
氷河が、微妙に顔を歪める。
が、彼はすぐに気を取り直したようだった。
俺の愛する人は とても慎重で、そして、少し臆病で照れ屋なのだ。
そんなことを、氷河は一人で勝手に決め、一人で勝手に納得したようだった。

「俺は、瞬のためになら何でもする。瞬が欲しいというものは、盗んでもくる。瞬のために祖国を裏切りもしよう。瞬がそれを望むのなら。だから、瞬。怯えたりせず、この氷河を受け入れてくれ……!」
「……!」
『枯葉』の次は『愛の讃歌』である。
次にはきっと『パリの空の下セーヌは流れる』あたりにいくのだろうと、瞬は空しく推察していた。
(それにしても、んなこと大声でわめいて恥ずかしくないのかな、この人……)
所詮、ラテン民族と大和民族、フランス革命と明治維新、シャンソンと演歌、ドラクロワと歌麿、トリュフォーと黒沢明、ピガールと歌舞伎町、フランス人と日本人が真に理解し合うことは困難なのに違いない。
瞬が――瞬もまた――そう一人決めしたのは、氷河と自分を同じ生き物だと思いたくないという願望のゆえだったろう。
瞬は深呼吸を一つして、なるべく素っ気なく尋ねてみた。

「氷河、あのね。君は僕の何を知っていて、そんなことを言えるわけ?」
「瞬は綺麗だ。とても可愛い。まさに、理想のMon ami恋人!」
「……」
(だいたい、そんなことだろうと思ってたよ……!)
外見だけで恋ができるフランス男の頭の中は さぞかし平和で単純かつ明快なのだろう。
しかし、日本人である瞬の価値観は、氷河のそれとは大きく異なっていた。
『外見で人を判断してはいけません』という言葉が 抵抗なく万人に受け入れられる国なのだ、日本は。

「俺が道に迷っている時、声をかけてくれた。瞬はとても優しい。声をかけるのをためらっていた。瞬はとても奥ゆかしい。わざわざ学校まで案内してくれた。俺はとても嬉しかった。瞬の欠点は、この氷河の愛を受け入れてくれないことだけだ」
「え……」
優しさと奥ゆかしさ――。
少しだけ、氷河の中に日本人の血が混じっているというのは、どうやら事実らしい。
となれば、この場合 問題なのは、氷河の中に流れる日本人の血が“少しだけ”であることなのかもしれなかった。
そして、彼が大変な誤解をしていることが。
そもそも、氷河がこういう人間なのだとわかっていたら、瞬は親切心など起こさなかったのである。
声をかけるのをためらったのは奥ゆかしさのせいではなく、彼の使用言語がわからなかったから。
同じ学校の生徒となれば、案内したくなくても案内せざるを得ないではないか。
瞬は抑え難い偏頭痛をこらえながら、だるそうに氷河に告げた。

「もう一つあるよ、僕の欠点」
「もう一つの欠点? 瞬に?」
到底思いつかないと言わんばかりに肩をすくめる氷河を、半ばヤケ気味に瞬が怒鳴りつける。
「わかってるの? 僕は男なんだよ!」
「は……?」
瞬が声を荒げるその様子に、おフランス男はしばし――ほんの数秒の間――あっけにとられていた。
が、彼はすぐにその口許に微笑みを浮かべた。
そして、その青い瞳に感動と情熱の光をたたえ、彼はしっかりと瞬を抱きしめてきたのである。

「そんなことを気にしていたのか、mon amour可愛いひと ! もちろん、そんなことを、俺は気にしない。瞬が瞬でいてくれるのなら、それがいちばん大切なことだ!」
ちょっとやそっとの“もごもご”では脱け出せそうにない毛唐男の腕の中で、瞬はそれでも根性でもごもごしていたのだが、ふいに氷河の唇に自分の唇をふさがれて、瞬は思わず“もごもご”の継続を忘れてしまった。
びっくりして瞳を見開いているうちに、なんと口中に舌まで忍び込んでくるではないか。
とにもかくにも悲しいことに、それが瞬のファーストキスということになってしまったのである。

(そんな……! こんなのって、あんまりだ……っ!)
これまでの十数年間、人様に迷惑をかけぬよう、人様を傷付けぬよう、ごくごく一般的かつ地味かつ平凡に生きてきた、その代償がこれだというのだろうか。
瞬にはもう神様の姿が見えなかった。
それでも瞬は、氷河の身体を押し戻そうと渾身の力を振り絞ったのだが、いかんせん、相手は恋するフランス男である。
常識人の力でどうなるものでもない。

「動かないで、瞬……」
そう囁かれ、再び唇をふさがれる。
恋人の背中を愛撫するようにうごめく氷河の両の手は妙に なまめかしく、制服越しに押しつけられる氷河の肩、胸、脚は恋の欲望に燃えていた。
そして、氷河の一連の所作は、なにしろその手の免疫皆無の瞬には、刺激が強すぎたのである。
くらくらと激しい目眩いに襲われて、瞬は、あろうことかフランス男の腕の中で、すうっと意識を失ってしまったのだった。






【next】