ふっと意識を取り戻した瞬の視界に最初に飛び込んできたのは、おフランス男の青い瞳だった。 (わあ、綺麗……) まだモヤがかかっているような頭でぼんやりとそう思い、思ってから瞬は、しっかりくっきり覚醒した。 淡いベージュに統一された室内。部屋の壁の一面に、幅が5メートルはあろうかと思われるドラクロワのタペストリー。 どう考えても、ここは学校の医務室ではない。 (――てことは……) ぱちっと目を開いた瞬に、氷河がにっこり微笑みかけてくる。 「瞬、気がついたのか? 急に倒れるから心配したんだぞ!」 そう言って、ベッドサイドに置かれていた椅子から立ちあがると、彼は瞬にホットミルクの入ったカップを差し出した。 「……」 一瞬ためらったのだが、人様の厚意を無下にできるほど冷たい人間にもなりきれなかった瞬は、ベッドの上に身体を起こして、そのカップを受け取った。 どうやらそこは氷河のマンションらしい。 (物価高の日本で、よくこういうとこに住めるね……) 上目使いに氷河の顔を盗み見ながら、両手でカップを持ち、こくりと一口その中身を飲んでから、瞬は ある恐ろしい事実に気付いた。 恐ろしい事実――とは、つまり、自分が制服を身に着けていないという憂慮すべき事態だった。 中に着ていたYシャツは脱がされていなかったが、そのボタンが三つまで外されている。 瞬の頬を、冷汗が一筋たら〜りと伝い、落ちた。 が、おフランス男は、瞬の焦りに気付いた様子もない。 「瞬は貧血の気があるのか? レバーやチーズは食べているか?」 その何気ない様子から察するに、とりあえず、おぞましい出来事はなかったらしい。 瞬は、氷河の質問にぷるぷると左右に首を振った。 氷河が、ベッドの瞬を見おろし、諭すように言う。 「そんなことでは駄目だぞ、瞬」 「はい……。ごめんなさい……」 こんな軽っぽい男に説教されている自分がひどく情けなくて、思わず瞬は顔を伏せてしまったのである。 だが、氷河の推察通り、レバーは瞬の苦手食材の一つだった。 「ミルクを飲み終えたら、送っていく。婚約したわけでもないのに、あまり遅くまで引きとめていたら、瞬の不粋なお兄さんが怒るだろう」 「遅く……って……」 室内を見まわし、妙に凝った造りのエルメスの置き時計で時刻を確認した途端、瞬の目は点になった。 室内が明るいのは、なんとお天道様のせいではなかったのである。 「は……はちじはん !? 」 広い部屋の四隅にあるライトが鏡の作用を利用して、真昼間のように室内を明るく見せてはいたが、エルメスの時計は無情にも、瞬のファーストキスから3時間半後の時刻を示していた。 「ぼ……僕、帰らなきゃ……!」 手にしていたカップをサイドテーブルの上に置き、ベッドを飛び出ようとした瞬の肩を、フランス男の手が がっしと掴んでくる。 ぎくりと、瞬は、全身を強張らせた。 そうしてから、ここで こんな変な男に押し倒されるようなことがあってたまるかと身構えて、瞬は唇をきつく引き結んだのである。 が、氷河は瞬をベッドに押し倒したりはしなかった。 押し倒しはしなかったが、ボタンが外され、完全にではないにせよ露わになっていた瞬の胸元に、彼はその唇を押しつけてきた。 瞬の身体は、真剣にマジで、冗談抜きに、オーロラ・エクスキューションをくらった某聖闘士よろしく、ぴっき〜んと硬直してしまったのである。 だが、それ以上のことをするつもりは、どうやら氷河にはなかったらしい。 彼は、瞬の胸に唇を異常接近させたまま、少しかすれた声で、彼の恋人に告げた。 「日本人は、結婚するまで愛し合ってはいけないのだろう? もちろん俺は、それまでちゃんと待つ」 そうするにはかなりの努力を要したらしかったが、氷河は瞬の胸元からゆっくりと唇を離した。 ひどく つらそうな目をして、今度は瞬の頬に軽く口付ける。 「瞬の胸は、とても美しい」 「〜〜っっ !! 」 真っ当な神経を持っている日本人の忍耐力には 限界というものがあるのである。 瞬は、そろそろ我慢が続かなくなりかけていた。 いったい、この大ボケフランス野郎は何を言っているのだろう。 いつまで、そして、何を待つというのだろう。 瞬は、氷河の手を乱暴に振り払った。 「ひ……一人で帰れます! 帰ります! 放してください!」 「瞬……」 我ながら なんと男らしいのだろうと感動してしまうほど、瞬は 瞬にしては珍しく断固とした口調で氷河に言い放った。 が、その程度のことで簡単に愛する恋人を解放してしまうフランス男ではなかったのである。 氷河は、ベッドから出ようとする瞬の両肩を鷲掴みに掴み、彼の恋人を元の場所に押し戻した。 「今まで考えたこともなかったが、瞬は もしかしたら俺が嫌いなのか?」 「……!」 今まで考えたこともなかった――とは、いったいどういうことなのだろう。 一言物申してやろうと決意して、瞬はキッと氷河を睨みつけたのだが、その途端に、自分の怒りよりも真剣で切なげな氷河の眼差しに出会って、瞬は言葉に詰まってしまったのである。 『だいっきらい!』とは、言いにくい雰囲気だった。 「そ……そんなことないけど、氷河、ちょっと強引だから……」 「ちゃんと瞬の意思を尊重すればいいんだな?」 日本人の意思表示の曖昧さを良い方に解釈した氷河が、少し その眼差しを和らげる。 「そ……そうだよ」 「もちろん、瞬の望む通りにする」 にこやかな氷河の微笑みを、瞬は疑わしげに見やった。 (……ほんとにわかってるのかな……?) 瞬の不安は、まったくもって当然のことである。 果たせるかな、瞬の不安は的中した。 「瞬。キスしてもいいか」 「……!」 氷河は、やはり氷河なりの解釈をしかしていなかった。 彼は もちろん、瞬の希望に沿い、瞬の意思を尊重するために、そう尋ねてきたのだろう。 だが 瞬は、それで 悲しいくらい脱力してしまったのである。 しかし、恋するフランス男は、恋に疲れた色も見せない。 「瞬は、俺を拒んだりしないだろう? そんなことになったら、俺は生きていられない……!」 『それなら さっさと死んでしまえ!』と、瞬は、いっそ大声で叫んでしまいたかったのである。 しかしながら、心優しい日本人には、やはりそう言ってしまうことはできなかった。 フランス男は妙に真剣そうだったし、一般的日本人の理解の範疇を越えている分、何をしでかすかわからないところがある。 本当に氷河に死なれてしまったら、瞬とて困るのだ。 「に……日本では、そういうの、あんまり日常的な行為じゃないんだよ、氷河」 婉曲的に、それとなく、氷河を傷付けないように、彼との恋を遠慮する意思表示を試みようとして、瞬は、どもりながら 日本人の一般常識を口にした。 氷河が、『わかっている』と言うように、おもむろに頷く。 「べーゼが日常的行為でない日本人には、唇を許すことは、すなわち 身体を重ねるのも同じ――と、ものの本に書いてあった。俺には、そういう考え方は よくわからないが――だが、俺は瞬が欲しい。それを我慢しろというのなら、せめてキスだけでも――と考えるのは、そう突飛なことではないと思うのだが」 論理の展開にさほどおかしいところはないが、それは、大きな穴のある前提条件の上に構築された論理であり、瞬にはとてもではないが受け入れ難い要求だった。 要するに氷河は、性行為を我慢する代わりにキスを許せと言っているのだ。 「に……日本人は、キスからそういう行為にいくまでが短距離な代わりに、キスまでの道のりが長いのっ!」 精一杯の瞬の反駁に、氷河がしみじみと頷く。 「知り合って、キスを交わすまでに9時間もかかった」 「〜〜っっ !! 」 ベッドから起きあがる気力も失せてしまう。 瞬は、いっそ枕に突っ伏して、泣いてしまいたかった。 だが、いくらなんでも人前でそれはできないので、瞬は毛布をぎゅっと握りしめ、ちょっとした刺激で涙を零してしまいそうな自分自身を必死で励ましたのである。 小刻みに震える瞬の肩を、甚だしい誤解のもと、氷河が優しく抱き寄せる。 「だが、瞬のこういう姿を見ていると、どうにも自分を抑え難い。瞬はとても魅力的だ」 またまた懲りずに迫ってくる氷河を、いったいどうやってかわせばいいのか、瞬にはもうわからなかった。 口で敵わず、力で負けて、迫力も根性も相手の方が数段上――なのである。 瞬に、いったい何ができるというのだろう。 「日本人は、結婚する前に、こういう激情にかられることはないのか?」 耳許で囁きながら、氷河は瞬を抱きしめ、乱暴にではないが強引に、瞬の身体をベッドに横たえてしまった。 「Mon cheri,beau comme le Jour」 身体を重ねられ、その重みを感じる段になってやっと瞬は、日本男児の気概を再び思い出したのである。 ここで金髪碧眼の毛唐などに――それだけならまだしも、特に好きでも嫌いでもない男に――貞操を奪われてしまうようなことがあって いいものだろうか。 瞬は、それだけは――そんな事態だけは避けたかった。 「ちょ……氷河、ちょっと待って……!」 氷河の肩を押し戻そうとしながら、瞬は喘ぐようにフランス男に訴えた。 が、彼は今、恋の熱情の真只中にいて、既に一秒たりとも猶予のない状態に突入していたらしい。 「待てるはずがないだろう、瞬」 実に尤もな答えを、彼は、一般常識的な日本人に返してよこした。 「ぼ……僕の意思を尊重してくれるって言ったばかりじゃない!」 「これは意思の次元のことではなく、必然、もしくは瞬と俺の運命だ」 「そんなの、勝手に決めないでよっ!」 「瞬……愛している……」 (うーっ !! ) なぜ このフランス男は、そういうセリフを平気の平左で、しかも、真剣な顔をして しゃあしゃあと口にしてしまえるのだろう。 氷河を押し戻そうとしていた瞬の腕からは、一瞬 力が抜けそうになってしまった。 首筋に、氷河の息を感じる。 瞬は、反射的にぎゅっと目を閉じて、拳を握りしめた。 瞼を伏せた拍子に、我慢していた涙がぽろりと零れ落ちる。 瞬は、自らの拳で、このとんでもなく破廉恥なフランス男を思いきり殴りつけ、叩きつけ、その尋常でない おつむをなお一層悲惨なものにしてしまうことを、心を鬼にして決意した。 人を傷付けるのは嫌いだったが、自らの貞操の危機となれば、これは話が別である。 瞬にも、日本男児としての誇りがあった。 (氷河っ、覚悟っ!) まずはこの破廉恥男を自分から引きはがすのが先決と、瞬は、自分に折り重なっている男の背に腕をまわした。 破廉恥男を抱きしめるためでは、無論、ない。 それは、氷河の豪華な金髪を一房ほど犠牲にするため――だった。 実際に氷河の髪を引っこ抜く前に、その痛みの程を想像して、瞬は、人事ながら、その苦痛に顔を歪めた。 しかし、ここでためらってはいられない。 瞬は、ごくりと息を飲んだ。 (氷河、ごめんねっ!) 悪意が無いとはいえ、自分をレイプ(?)しようとしている男に反撃するのに罪悪感を感じるあたり、瞬は哀しいほど加害者になることを恐れる人間だった。 が、恋するフランス男は、図々しく厚顔無恥の上、恐るべき強運の持ち主だったのである。 瞬が氷河の髪を掴もうとした、まさにその瞬間、氷河は 瞬の首筋に埋めていた顔をすっと離し、そして、彼の恋人の瞳を見詰め、苦しげに呻くように言ったのだった。 「だが、俺は、瞬の国の習慣も重んじなければならない。俺の我儘のために、瞬が人に後ろ指さされるようなことがあってはならない。瞬の名誉は、俺の命より大事だ」 「……」 瞬は、氷河のその言葉に目をみはってしまったのである。 たとえ氷河の恋がどれほど非常識で一人よがりで我儘で自分勝手なものだったとしても、彼が極めて真剣であり、可能な限り恋人に対して誠実であろうとしていることだけは事実のようだった。 せめて よい友人として、友情という次元で、日仏親善を図ることはできないものだろうかと、瞬は思ったのである。 瞬の苦悩を知ってか知らずか、恋するフランス男の情熱は一途だった。 彼は、瞬の乱れた襟許を直し、切なそうな目をして瞬に告げた。 「……だが、瞬。せめて約束してくれ。いつか必ず、瞬のすべてを俺にくれると」 「〜〜っ!」 (ったく……!) 誇り高い日本人に、そんな約束ができるものだろうか。 瞬は、ほんの僅かな間とはいえ、よい友人になどという人の好いことを考えた自分自身を深く激しく反省した。 そして、愛する人がその約束に頷いてくれるのを心待ちにしているフランス男の青い瞳を、瞬は溜息混じりに見詰めることになったのである。 その時だった。 瞬の脳裡を、氷河を傷付けずに この場を逃れるための非常に有効な手段についてのアイデアが、突然稲妻のように駆け抜けていったのは。 瞬は、こほんと咳払いをしてから、真顔で氷河に向き直った。 少し引きつった笑みを目尻に刻み、それから、おもむろに口を開く。 氷河は、その笑みの含む引きつりに気付きもせず、瞬の微笑に目を細めた。 「あのね、氷河。僕は、自分で言うのもなんだけど、すごいブラコンなんだ」 「ブラコン……?」 「そう。僕はね、僕の兄さんみたいな硬派が好きなの」 「コウハ――とは……?」 氷河は、その単語をなにやらひどく胡散臭いものと思ったらしく、いかにも不審そうな目をして瞬に反問してきた。 なにか、人を騙しているような罪悪感に苛まれつつ、瞬が彼の質問に答える。 「ん……だからね、愛だの恋だのには興味が無い…ってふうに決めてて、気安くキスしたり愛の告白をしたりしないで、モナミだのモンシェリだのって軽口も叩かないで、好きな人を黙って見守ってるタイプ」 「瞬への この激しい思いを押し隠せと言うのか!」 氷河の噛みつくような反駁に、瞬は一瞬 出会って、わずか半日――ではないか。 いったいどうすれば、そんな“激しい思い”を抱くことができるというのだ。 それとも、フランス人には、それはごく自然なことなのだろうか? 「せ……切なくていいでしょ、そーゆーの。それが日本風の恋の楽しみ方なんだよ」 瞬の言う“日本風の恋の楽しみ方”に、氷河が苦悶の表情を浮かべ、低い呻き声を洩らす。 「それは……とても難しい……」 もしかしたら、氷河にとって“日本風の恋の楽しみ方”は、奴隷のように自らの心を押し殺すことと同義だったのかもしれない。 それは、恋するフランス男には 死につながる拷問にも等しいものだったのかもしれない。 その苦難を自ら進んで選び耐えろと言われた氷河の表情は、まさに天なる神に地獄行きを宣言された罪無き人間のそれのようだった。 そんな氷河を見ていられず、『冗談だよ!』と言ってしまいそうになる自分を、瞬は心の中で厳しく叱咤したのである。 「そ……それができないような人、僕は好きになれないよ……」 「瞬……!」 苦しそうに眉を寄せ 沈痛な面持ちで、だが、氷河は結局 最後には重々しく瞬に頷いてきた。 「わかった……」 (やった……!) 瞬が、彼の言葉にぱっと瞳を輝かせる。 「ありがとう、氷河! 僕、氷河のこと、大好きだよ!」 「瞬……」 瞬のために かなりの無理をして作ったのだろう氷河の微笑には、深い翳りが漂っていた。 |