「瞬の部屋はどこなんだ?」
せめて家まで送らせてくれという氷河の懇願を拒むこともならず、瞬は、彼と連れだって兄の待つ家へと帰宅した。
「二階の右端だよ。ベランダのところに、ベンジャミンとフェニックスの鉢植えがあるでしょ?」
何の気なしに答えてから、瞬は嫌な予感を覚えた。
『黙って見守っている』と約束したそばから、この恋するフランス男は夜這いにでも来るつもりでいるのではないか――と、瞬はちょっとだけ不安になってしまったのである。
「そうか……」
だが、氷河は つらそうに微笑んで、頷いただけだった。
「瞬の好きな硬派の兄さんに会うのは つらいから、俺はここで帰る」
「……」

遣る瀬無げな氷河の その微笑に、瞬の胸はちくんと小さな痛みを覚えたのである。
「ん……ありがと、氷河。おやすみなさい、氷河、またね」
「おやすみ、瞬」
俯き、項垂れて、氷河が彼の恋人に背を向ける。
瞬の両の肩に罪悪感が ずっしりと のしかかり、それは重くなることはあっても軽くなることは決してないように、瞬には感じられた。
だが、とにかく、一難は去ったのだ。
家の門前でしばらく氷河の後ろ姿を見詰めていたのだが、通りの角を曲がって氷河の姿が視界から消え去ると、瞬は ほっと小さな息をついて家の中に駆けこんだ。


「兄さん、ただいま!」
「遅いぞ、瞬!」
リビングから不機嫌そうな兄の声が響いてくる。
瞬は自室に行く前に、兄に弁明しておこうと考えて リビングに入った。
一輝は、そこで夕刊と睨めっこをしていた――どう見ても、睨んでいるだけで読んではいない。
自分が兄に相当 心配をかけてしまったことに気付いて、瞬は今更ながらに深く反省し、その瞼を伏せたのである。
「ごめんなさい。ちょっと氷河のところにいたんです」
「瞬」
一輝が、ばさりと夕刊をテーブルの上に置く。
瞬は、兄が続く言葉を口にする前に 意識して明るい笑顔を作り、これ以上心配をかけるわけにはいかない兄に、それを提供した。

「明日から僕につきまとわないって、氷河に約束してもらったんです」
一輝が疑わしげに眉をひそめる。
弟の報告は 彼には にわかには信じ難いものだったらしい。
「どうやってだ。そう簡単にあの おフランス野郎が引き下がるとも思えんが」
「ええ。でも、約束してくれました」
「……?」
彼の弟が兄に嘘をつくはずがないことを、兄は知ってくれていたのだろう。
今ひとつ納得できてはいなかったのだろうが、おそらくは弟への信頼ゆえに、一輝はその日 それ以上は何も言わなかった。


その夜、夕食を済ませ、しばらく他愛もない話を兄と交わしてから、瞬は自室に戻った。
(なんか、今日は散々な一日だったけど、明日からまた平穏な日々を送れるよね)
思いだし笑いなど あまり感心できることではないと思うのだが、安堵の気持ちが瞬の頬の筋肉を緩める。
瞬はくすくすと一人で楽しげに笑いながら、カーテンを閉じようとして、ベランダに面したガラスのドアに近付き、何気なく外に視線を投げた。
(え……?)
そうして瞬は、その視線の先に――瞬の家の門の前に一人佇んでいる氷河の姿を見い出すことになったのである。
(氷河…… !? )

瞬は、さっとカーテンの脇に姿を隠し、それからもう一度、カーテンの隙間から こっそり外を覗き見た。
夜とはいえ、あの華やかな金髪の持ち主を見誤るわけがない。
事実、そこにいたのは、紛れもなく軽重浮薄のあのフランス人だった。
(な……なんで、氷河が……? もう3時間も前に帰ったはずなのに……)
瞬は訝りつつ、室内の灯りを消し、しばらく氷河の様子を窺っていたのである。
瞬の部屋の灯りが消えたのに気付いたらしい。
恋するフランス男は、それでも暫時 切なげに瞬の部屋の窓を見詰めていたのだが、やがて肩をすぼめて、その場から立ち去っていった。

「……」
瞬は、何がどうなっているのかがまるで理解できず、氷河の姿が見えなくなっても ずっと その場に突っ立っていたのである。
やがて、そうしていてもどうにもならないことを悟り、思考力皆無の状態で 瞬は自分のベッドの中に入った。
何かを考えるのが恐くて――瞬は毛布の中にもぐり込むと、1分でも1秒でも早く眠ってしまおうと、懸命に それだけを考えた。






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