それからの数日の間、氷河は瞬との約束を守り、ただひたすら遠くから瞬を“黙って見守り”続けていた。
朝は瞬の通学する様子を、授業中は自分の授業をさぼって校庭の隅から瞬の教室を、夜は瞬の就寝を確かめるまで家の外で瞬の部屋の窓を。
恋するフランス男の情熱は、目も当てられないほど一途だった。


「瞬。おまえ、あの毛唐のあんちゃんに、随分つれないことしてるじゃんかよ!」
氷河が瞬を“黙って見守り”始めて4日目。
朝のホームルームが終わり、一時限目の授業の用意をしていた瞬に、校庭の隅に佇む氷河を横目に見ながら、星矢が話しかけてきた。
瞬は、小さな声で、とりあえずの反駁を試みてみたのである。
「そんなこと……してないよ……」
「そーかぁ? でも、かわいそうだぜー。もう4日もああじゃんか」
「だって、へたに甘い顔すると、氷河、僕を迫り倒そうとするんだもの! 僕、そんなの困るんだからね!」
「そりゃま、ファーストキスを男に奪われたおまえの悔しさはわかんないでもないけどさー」
「その話はしないでよ!」

そうなのである。
実は4日前の中庭でのあの出来事は、少なく見積もっても百人以上の生徒の目にさらされていたのだ。
あの時――『枯葉』に代わって『愛の讃歌』が流れ始めた あの時、中庭を囲む校舎の窓という窓に、氷河の言動に好奇の目を向けていた多数の生徒がひそんでいた――という事実を、瞬は翌日、星矢によって知らされた。
瞬は、氷河のためにそんな見世物になるのは、金輪際 遠慮したかったのである。


「ああ、瞬。ちょうどよかった」
「紫龍? 何か用?」
星矢が 長い付き合いの幼馴染みより、つい数日前に日本にやってきたばかりの留学生の方に同情していることを 瞬が知らされた その日の昼休み。
瞬は、学年は違うが、これまた幼馴染みの紫龍に廊下で呼びとめられた。
瞬が振り向くと、紫龍は、その瞳に 同情とも困惑ともつかない色をたたえ、言いにくそうに瞬に告げてきた。
「うちのクラスに来た留学生が授業に出ないので、教員室で問題になっている」
「……」

またしても あのフランス男の話かと、瞬は両の肩を落としてしまったのである。
瞬は氷河の親でもなければ兄弟でもなく、クラスメイトでもなければ、友人ですらない。
誰が何と言おうが、誰がどう思おうが、瞬はそのつもりだった。
だというのに。
「でも……それ、僕のせいじゃない……」
もそもそと言い訳がましく呟いた瞬の弁明は、しかし、誰にも通じないのである。
瞬は氷河の“何か”だと、誰もが信じてしまっているのだ。この学校の者たちは。
「だが、他の誰のせいでもないだろう」
「……」
紫龍の指摘は、多分 正しい。
瞬には不本意の極みだったが、それは事実のようだった。

氷河が瞬に夢中になり、その氷河に瞬がつれない態度をとった。
そのために傷心した氷河は、それでも その恋を思い切ることができず、ひたすら瞬の姿を追い続けている――というのが、この恋愛騒動の世間一般の標準的な見方なのだ。
「おまえが言えば、奴も従うだろう。奴に、ちゃんと授業に出るように言ってやってくれ」
「うん……」
自分には そんなことをする義務も義理もないと言うことができたなら、人は どれほど苦労のない人生を生きていけることか。
望まぬ苦労を拒否できず、瞬は 項垂れるように紫龍に頷いた。


星矢と紫龍。
本来なら誰よりも瞬の味方であるはずの幼馴染みたちの忠告と諫言。
だが、その日、瞬への攻撃は それだけでは終わらなかった。
紫龍に頼まれたことだけは氷河に伝えておこうと考えて、瞬は その日の放課後、鞄を手にして教室を出た――出ようとした。
が、至極残念なことに、瞬はそうすることができなかったのである。
大挙して瞬の教室に押しかけてきた、金髪大好きミーハー女子生徒たちのせいで。

「瞬くん! そりゃあ、私たちはミーハーで、金髪だーってだけできゃーきゃー騒いでいたけど、ここ数日間の彼の真剣な様子を見ていて、私たち、とても胸を打たれたの。彼がそんなにあなたのことを思っているのなら、私たちは涙を飲んで彼を諦めるわ。だから、あなた、彼に もう少し優しくしてあげてくれないかしら。あれじゃ、彼が気の毒すぎるわ」
「あ……あの、僕……」
「あれだけ彼に思われて、いったい、あなた、何が不足なの」
「でも、僕、男……」
「人を好きになるのに顔の良し悪しは関係あっても、男だの女だのなんてことは問題にはならないわ! あなた、彼のあの打ちひしがれた姿を見て、何も感じないの!」
「まあ、なんて冷たい子なんでしょう!」
「これは、国際問題だわよ! 彼のお家って、代々外交官を務めている家系なのよ。日本は、一人の高校生の軽挙のために大きな誤解を受けることになるんだわ!」
「なんて、嘆かわしいことでしょう!」

反論する間もあらばこそ。
瞬は瞬で、氷河の軽挙に大きな迷惑を被ったのだという事実など、上級生のお姉様方に理解してもらえようはずもない。
瞬は迫力負けして、ひたすら破女たちの前で小さくなっていることしかできなかった。


それで結局 その日、瞬は、紫龍に頼まれたことを氷河に伝えることができなかったのである。
お姉様方の吊るし上げからは、瞬を“黙って見守って”いた氷河が、それこそ黙って救い出してくれた。
瞬は、その日は、彼の護衛のもと、帰宅することになった。
途中 いくらでも話をしようと思えばできたのに、すべてはこのフランス人のせいだと思う気持ちと、自分はどれほど彼を苦しめているのだろうという罪悪感に責められて、瞬は氷河に対して何を言うこともできなかったのだ。
「ここでいいです。どうもありがとう」
素っ気ない瞬の言葉に、氷河が つらそうに眉を寄せる。
瞬は、門の前に彼を残し、それ以上は何も言わずに玄関に飛び込んだのだった。


「おい、瞬。あそこまでいくと哀れだぞ」
その夜、予告もなしに瞬の部屋を訪れた一輝は、きっちり閉じられたカーテンの隙間から恋するフランス男の姿を窺い見ながら、とんだ災難にまとわりつかれている彼の不幸な弟をなだめるように、そう言った。
「兄さんまで……!」
瞬は、言葉を詰まらせてしまったのである。
瞬は、兄にまでそんなことを言われるとは思ってもいなかった。
「兄さんのいちばん嫌いなタイプじゃないですか!」
ほとんど泣きそうな声で瞬は叫んだのだが、一輝は弟に泣かれるのには、子供の頃から慣れていた。
ゆえに彼は、瞬の訴えに まるで動じた様子を見せなかった。

「だが、ああいう奴は、思い詰めると何をしでかすかわからんからな。だいいち、あの毛唐なんぞより、おまえの方がよほど つらそうだぞ、瞬」
弟が人を傷付けることに慣れていないこと、人の痛みを自分の痛みとして受けとめてしまうタイプの人間だということを一輝はよく知っていた。
自分の手で他人を傷付けるくらいなら、自分が傷付いていた方が、瞬は よほど気楽なのである。
「そんなこと……ありません……」
あくまで意地を張り続ける瞬に嘆息して、一輝は弟の部屋を出た。






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