続 愛の讃歌






玄関で靴を履き、鞄を抱きしめると、瞬はゆっくりと深呼吸を一つして、自らに活を入れた。
このドアを開けると、またしても恐怖の一日が始まってしまうのである。
考えると気が重かったが、少しでも気を抜き油断すると、とんでもないことになってしまうのだ。
(さあ、瞬。今日も一日、頑張るんだよ! 不幸な境遇に耐えて生きてるのは おまえだけじゃないんだからね……!)
自分で自分を励ますと、瞬は思いきって玄関のドアを開けた。
「ああ、俺の可愛い瞬! 13時間と43分も瞬と離れていたというのに、なぜ俺がこうして生きていられるのか、その理由が俺にはどうしても わからない……!」
「……おはよ、氷河」
今日も今日とて、金髪おフランス男は元気いっぱい恋の虜をしているらしかった。

「おはよう、mon amiモナミ。今日もとてもチャーミングだ。ん? いや、少し目が赤いかな」
左手で軽く瞬の腰を抱き、氷河が瞬の頬に朝の“ご挨拶”をする。
万一それを拒めば、少なく見積もっても20分以上氷河にかき口説かれ続ける羽目に陥ることを知っている瞬は、無言のまま、無表情を保とうとするあまりに引きつっている顔で 彼のキスを受けとめた。
瞬の強張った表情は その奥ゆかしさの現われであると、勝手に自分にいいように解釈している氷河は、今日も無事に熱愛する恋人に会えた喜びに瞳を輝かせている。

「勉強のしすぎか? どう見ても6時間以上眠った顔には見えないぞ。もし俺のことを思って眠れずにいたというのなら、こんなに嬉しいことはないが、しかし、身体は大事にしてほしいな。瞬の身体は瞬だけのものではないのだから」
(僕の身体は僕だけのものだよ!)
つんと横を向いて、瞬は素っ気なく言葉を吐き出した。
「今日、世界史のテストがあるから」
瞬の言葉に氷河は大袈裟に両の肩をすくめ、そうしてから心配そうに瞬の横顔を見詰めてきた。
「試験前夜の詰め込み勉強なんて、瞬らしくない。普段から真面目に勉強していれば、試験があるからといって、慌てて勉強する必要もないだろうに」
(氷河ってば、いったい誰のせいで、僕が毎日真面目に学業に励めずにいると思ってるの! 突然夜中に電話かけてきたり、読むのに30分もかかるようなラブレター送りつけたりして、僕の勉強時間を奪ってるのは氷河じゃない……!)

はっきり拒絶できない自分の優柔不断さを認めつつも、その現状を自分だけのせいだと思ってしまうことは、どうしても瞬にはできなかった。
「毎日氷河のせいで時間とられてるから、あんまり勉強できないんだ」
皮肉の一つくらい口にしてもバチは当たるまいと考えて瞬はそう言ったのだが、愛する恋人の可愛らしい唇から出た言葉が、氷河の耳に皮肉に聞こえるはずもない。
「可愛いことを! 瞬が四六時中俺のことを思っていてくれるのは嬉しいが、しかし、人生は恋だけで構成されているものではないんだぞ」

氷河が言うと、正論も説得力を失う。
氷河の“感動のキス”を拒むだけの気力は、すでに瞬の中には残っていなかった。
氷河のキスに不快感も覚えなくなってしまった自分の唇が情けなくてならない。
最近瞬は、自分の唇を自分のものだと思うことができなくなってしまっていた。
これは氷河の朝食でしかないものなのだと、ほとんど投げ遣りな気持ちで、瞬は自分をなだめ慰め続けていた。

逆らってはいけないのである。
逆らえば、それが最後なのである。
瞬は氷河には何も言わず、玄関の奥に向かって大きな声を張り上げた。
「兄さん、早くー! 遅刻しますよーっ!」
氷河の切なる求愛を拒めずにここまで来てしまった今、頼りになるのはもう兄一輝しかいなかった。
氷河が早速、彼の熱愛する恋人に“極めて深い遺憾の念”を表明し始める。
「瞬。こうして二人で登校するようになって8ヶ月以上経つんだ。いい加減で、お目付役は無しにしてくれないか? 俺が紳士だということは、もう一輝にもわかってもらえたと思うのだが」
「……」

氷河の言い草に、瞬は思わず言葉を失ってしまった。
日本の紳士とフランスの紳士は、どうやら全くの別物であるらしい。
瞬のイメージする“紳士”とは、どんな時にも冷静さを失わず、感情を露わにすることなく、礼節と良識と伝統を重んじる物静かで穏和な男性だった。
人生における最大の意味と価値を恋に置いている氷河のような人間は、“紳士”の対極に位置する存在だったのである。
瞬の認識では。

「まだたったの8ヶ月でしょ! 僕は幼稚園の頃から、小中高と10年以上ずっと兄さんと一緒に登校してたの! 今更別々に登校するなんてできないよ!」
半分怒鳴りつけるように瞬は言い切ったのだが、それは はっきり言って、神をも畏れぬ大嘘だった。
常識的日本人には計り知れない非常識を身につけた氷河という男が出現し、瞬にまとわりつき始めるまで、瞬の兄・一輝は寝坊と遅刻の常習犯であり、瞬は兄と共に登校した記憶など数えるほどしか持っていなかったのだ。
弟の身辺警護のために、一輝が寝坊や遅刻をしなくなった。
それが、氷河の出現によって、瞬の生活環境で改善された ただ一つのことだった。

「すまん。待たせたな」
一輝が、まだ眠そうな顔をして、のそりと氷河と瞬の前に姿を現わす。
氷河の相手をしているよりは兄の世話を焼いている方が余程いいと言わんばかりに、瞬は一輝の側に駆け寄っていった。
「兄さん、おべんと、ちゃんと持ちました? 忘れ物ありませんか? こないだ、兄さん、おべんとだけ持って、教科書持つの忘れたでしょ。僕、兄さんの先生に、ちゃんとするよう気を付けてくれって注意されちゃったんですからね!」
「ああ、悪かった。ちゃんと弁当も鞄も持った」
「ならいいです」
瞬が明るい笑顔でこっくり頷く。
瞬のその様子を見ている氷河の内には、むかむかと不快感が湧き起こってきていた。
血のつながった兄だというだけで、一輝に対する瞬のこの厚待遇はいったい何事なのだろう。
氷河は一輝が妬ましくてならなかった。
が、その感情を表に出して、瞬に悪印象を与える訳にはいかない。

「やあ、一輝」
氷河は努めて冷静に、だが素っ気なく、一輝に朝の挨拶をした。
「ふん。貴様、まだ瞬をつけまわしていたのか。懲りん奴だな」
一輝もまた、相応の冷淡さをもって、氷河に対峙する。
「君の方こそ、いつまでも瞬にへばりついていないで、早く恋人の一人くらい作ったらどうなんだ。君のように むさ苦しい男がもてないのは当然と言えば当然のことだが、しかし、一人くらいなら物好きな人間もいるだろうに」
「俺は理想が高いんだ」
我が兄ながら、顔に似合わないことを――と、シビアな弟は内心で思っていたのだが、意外や氷河は、一輝の発言に納得の表情を浮かべた。
「それはわかる。瞬の兄に生れついた不幸だ。瞬のように可憐で魅力的な弟と毎日顔を合わせていたら、他の人間が見劣りして見えるのは仕方のないことだ。しかし、瞬ほどではないにしろ、君に相応な魅力の持ち主はいくらでもいるだろう。君には 恋人を捜し出そうという意欲が感じられない」
「俺は、そんなモノの必要性を感じておらん」
「君が感じていなくても、俺が感じてしまうんだ。君は、本来恋人に求めるべきものを瞬に求め、恋人を瞬で代用してしまっているんだ」
「人聞きの悪いことを言うな。貴様じゃあるまいし、俺は弟に迫りまくったりはせんぞ」
眉根を寄せ不愉快そうに言う一輝に、氷河もまた不快そうな視線を投げかけた。

「そういう次元のことではなく――たとえば、姿を見ていて心をなごませるとか、ちょっとした身の周りの世話をしてもらうとか、何気ない会話を楽しむとか、そういうことを、君はすべて瞬相手に済ませてしまっているんだ。全く、18にもなって弟べったりとは信じ難い男だ」
「ふん。貴様よりはマシだ。瞬は、俺にとって、天にも地にも血の繋がったただ一人の肉親なんだからな。俺には、瞬を害虫から守る義務がある」
「その役は、この俺が君に代わって果たしてやると言っているんだ。君はそろそろ引退すべきだ」
「害虫自身が偉そうに何を言うか!」
毎朝の習慣になってしまった言い争いを展開している兄と氷河の間で、瞬はひたすら沈黙を守っていた。
自らの存在を氷河に気付かれぬよう控えめにしていること。
そのために、最大限の努力をすること。
それが、日々の暮しを少しでも平穏に過ごすために身につけた瞬の知恵と分別だった。
が、そうやって氷河の目に留まらぬよう努めているのにも限界がある。
氷河は、既にマンネリ化しつつある一輝との口争いを早々に切りあげて、愛する恋人の上に視線を戻してきた。

「瞬、何か言ってくれ。朝から一輝との角の突きつけ合いでは、せっかくの良い天気もだいなしだ。俺は瞬の声が聞きたい」
朝から男の声を聞いて何が楽しいんだと思いつつ、すっかり生活の知恵を身につけてしまった瞬は、決して氷河に逆らおうとはしなかった。
瞬は即座に氷河のリクエストに応え、彼に自分の声を聞かせ始めたのである。
「ヒトラーの世界観の根底にあったのは、極めてプリミティブな人種論であった。すなわち、すべての事柄の出発点は人種であるという考え方である。人間の価値を決めるのは、その思想や行動ではなく、彼がどの種族に属しているかということである。そして、人種の区別において最も重要なものは血である。異なる人種の間には、優劣の明確なヒエラルキーが存在する。最も優秀な人種はアーリア人種であり、彼等のみが文化創造的な能力を持っている。アーリア人種は自らの血の純潔の維持を図ると共に、劣った諸民族と闘争し、彼等を奴隷化する使命を負っているのだ――」
ヒトラーの人種観などに同感しているわけではないのだが、ちょうど試験範囲の資料の中にあった文章を、皮肉を込めて瞬は氷河に暗唱してみせた。
氷河が、僅かに口元を歪める。

「実に愚かな思想だ。人種間の交流によってヒトは その多様性を増し、より多くの可能性を持つ人間が創造されるというのに」
「へえ、僕、てっきり、氷河も純血保持主義者なのかと思ってたのに」
瞬の見解を、氷河は少しばかり意外そうな顔をして否定した。
「俺はそんな偏見の持ち主ではないぞ、瞬。瞬と俺の因子が混じり合えば、濃い色の髪と瞳を持ち鼻筋の通った子供ができるはずなんだ。考えるだけでも楽しいじゃないか」
「それ、僕が鼻ペチャだっていう意味 !? 」
氷河の言い草にカチンときて、ついに瞬は、してはいけない反抗叛逆に及んでしまった。
眉を吊り上げた瞬と、瞬の激昂に慌てふためく氷河を眺めながら、一輝は頭を抱えてしまったのである。
(これはそういう問題じゃないだろう。瞬の奴、氷河の馬鹿げた熱気に当てられて、自分まで おかしくなりかけているんじゃないだろうな……)
根性で自分自身を保とうとしている瞬の努力は わからないでもないのだが、それ以上の努力と情熱をもって氷河が瞬の中に入り込みつつあるのは、恐ろしいことに紛れもない事実だった。

「瞬、誤解だ! 瞬の鼻はとてもチャーミングで、瞬の愛苦しい顔にとても似合っている。だいいち、瞬の顔にアラン・ドロンの鼻がついていたって滑稽なだけじゃないか」
「氷河、僕を馬鹿にしてるのっ !? 」
瞬が、いよいよもって柳眉を逆立てる。
氷河は楽しそうに瞬の機嫌を取り始めた。
「瞬のように優しい顔立ちをしていると、怒っていても とても可憐に見える。が、できれば、俺の失言を許して、笑顔を見せてくれないか? 瞬は笑っている時がいちばんチャーミングだから」
「フランス男の名誉にかけて、もう少し気の利いたこと言ったらどうなの! そんなセリフ、そこいらへんでぶらぶらしてるおにーちゃんたちにだって思いつくよ」
「思いついても口にすることはできないだろう。そんな言葉を口にできるほど可愛らしい恋人に恵まれているのは、世界中に俺一人だけしかいないんだから」
「そんなこと言ったって、僕、何にもあげないよ!」
「俺は、瞬の愛情と笑顔の他に欲しいものなどない」
(うえ〜っっだ!)

結局いつもの通り、瞬は氷河の口説き文句を聞きながら校門を通りぬけることになった。
同じく登校中の女生徒たちが、満足げに二人の登校風景を見守ってくれている。
恋する男の一途さと情熱で忠律府学園高校全女子生徒の後援を手に入れた氷河に注がれる温かい眼差しが、ひどく瞬の居心地を悪くしていた。
氷河に、もし ほんの少しでも冷たい素振りを見せれば、瞬は5分と経たないうちに“氷河の一途な恋を見守る会”の おねーさま方に袋叩きにされてしまうのである。
今日もまた、緊張と屈辱の一日が始まろうとしていた。






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