「瞬、頼みがあるんだ」
いつになく深刻な顔をして、ふいに氷河が瞬の家を訪ねてきたのは、冬休みも間近になった ある土曜日のことだった。
「どうしたの、氷河。こんな夜遅く」
時刻は既に夜の10時をまわっている。
氷河にしてはマナーを無視したその訪問に驚いて、瞬は瞳を見開いた。
「済まない。迷惑だということはわかっているんだが、どうしても瞬に聞いてもらいたいことがあって……」
瞬ですら負けてしまいそうなほどに長い氷河の睫毛が、玄関のほの白い照明を受けて濃い影を落とし、わざとらしい憂いを演出している。
氷河らしからぬその表情を訝りつつ、パジャマの上に羽織ったカーディガンの袷を引き寄せながら、瞬はとりあえず氷河に部屋にあがるよう促した。

「コート脱いで、あがって。そこ、寒いでしょ」
「ありがとう。もう眠るところだったんだろう? 済まない。クマのパジャマが可愛いな。瞬にとても良く似合っている」
「……」
こういう余計な一言さえなければ、瞬はもっと氷河を好きになれるのである。
恋人に褒め言葉を投げかけることは 紳士としての礼儀的義務だと氷河は思っているらしいが、奥ゆかしく控えめな大和民族には――ましてや、日本男子には――それは、こそばゆさを通り越して、一種のおぞましさをさえ誘うものだった。
「パジャマとまでは言わないが、せめて瞬のカーディガンにでもなってしまいたいところだ、いっそ、俺は」
「そんなものになってどうするの。馬鹿なこと言ってないで。兄さん、呼ぶよ」
「……ああ」
夜中近くに氷河と二人きりで一つ部屋にいるなどという危険の中に身を投じるつもりのなかった瞬は、氷河を客間に案内すると、ガードマンを呼ぶために一輝の部屋に向かった。
『婚約もしていない二人が夜遅く密室に閉じこもっていることは、日本人社会では認められていないのだ』という誤った認識を抱えている氷河は、瞬の行動に物言いはつけない。
むしろ氷河は、瞬の注意深さに安心している感があった。

「いったいどうしたんだ、こんな夜中に。俺はおまえを、図々しいことは図々しいが、礼儀だけはわきまえた奴だと評価していたんだが、それも買いかぶりだったか」
土曜の夜の暗い楽しみ、パソコン相手の挾み将棋を邪魔された不快感をもろに表情に出して登場した瞬の兄に、氷河は素直に頭を下げた。
「済まない。マナー違反は重々承知しているんだが、どうしても急いで君と瞬に了解を得たいことができてしまったんだ」
「なんなんだ、いったい」
神妙な顔付きの氷河に、一輝は怪訝そうに眉根を寄せた。
三人分のお茶を運んできた瞬が、そのままソファに腰を下ろすのを確かめて、おもむろに氷河が口を開く。

「頼む、瞬。今度の冬休みに、俺と一緒にフランスに来てくれ……!」
「え…… !? 」
突然突拍子のないことを言われて、瞬は目を白黒させた。
何のために氷河がそんなことを言い出したのか、瞬にはその訳を察することすらできなかった。
「もちろん、旅費も滞在のための費用も すべて俺がもつ。瞬はただ、俺と一緒に来て、ちょっとしたパーティに出てくれるだけでいい」
「出てどうするの」
当然の疑問である。
しかもその疑問は、何やら嫌な予感に裏打ちされていた。
そして、もちろん、その予感は当たっているのである。
悪い予感、嫌な予感は、当たらなければ、誰にもどんな益も もたらさない――感じる意味がないものなのだ。
「俺の一族の者に会って、挨拶してくれるだけでいいんだ。皆、瞬を見たら、それで納得してくれるだろうから」
「……」

氷河の返答を聞いた瞬は、思いきり、これ以上ないくらい激しく顔を歪めた。
どう考えても それは、日本で言うところの『俺の両親に君を紹介したい』である。
とんでもない話だった。
だいたい氷河の言う“一族の者”というのが、得体の知れない響きを持っている。
(え……と、お父さんが日本人っていったって、氷河が金髪碧眼なんだから、お父さん側のそう遠くないとこに金髪碧眼の因子を持った異人さんがいて、それでお母さんがロシア系フランス人って言ってたし、だから、お父さん側の異人さん一族と日本人一族と、お母さん側のロシア系一族とフランス系一族がいるわけでしょ。フランス人なんて、プライド高くて、英語喋れてもフランス語しか使わないなんて言うし、僕、ロシア語なんて、ハラショーとスパシーボとペレストロイカとグラスノスチとボルシチとウオツカとイスクラとボルシェビキとメンシェビキとイワンのバカしか知らないのに……!)

驚きのあまり、瞬の思考は完全にパニック状態に陥ってしまっていた。
つまり、瞬はまたしても、心配の次元を間違えてしまったのである。
「ぼ……僕、やだ! 絶対にやだからねっ! そんなとこ行ったら、僕、青い目になっちゃって、氷河を普通だと思うようになっちゃう! 異人さんって、人の血飲むんでしょ。僕、そんなのやだっ!」
「……瞬、おまえは江戸時代の無知な村人その1か」
瞬が慌てふためいている分、一輝が異様に落ち着いている。
氷河の奇天烈かつ一方的な要望にも、彼は怒った顔一つ見せなかった。
「何のために瞬を おまえの国に連れていかなければならんのだ、氷河。いくら貴様でも、瞬を嫁に貰えると本気で思っているわけではないだろう」
「にーさん! 冗談でもそんなこと言わないでくださいっ!」
顔を真っ赤にして怒鳴り声をあげる瞬を、意外や冷淡にあしらって、一輝は氷河との会話を優先させた。
瞬が、その横で唇を引き結ぶ。

「俺は、瞬を、神が俺に引き合わせたもうた ただ一人の永遠のパートナーだと思っているし、瞬との親交をでき得る限り深めたいと思ってもいる。だが、もともと今回の俺の留学は、父の故国を見たいという俺の我儘を聞き入れてもらったもので、一年間だけという約束のものだったんだ。しかし、俺は、この国で瞬に会ってしまった。しかも、瞬はまだ16歳の高校生だ。瞬をフランスに連れていくのは、まだ数年は無理だろう。となれば、俺の方が日本滞在の期間を延ばすしかない。その許可を得るために、どうしても一度瞬にフランスに来てもらって、俺の親族に会ってもらいたいんだ」
「だから、どうして、僕のこと 氷河が勝手に決めちゃうの!」
当人を無視して進められる会話に苛立つ瞬を、氷河は悲痛な目で見詰め、一輝はうるさそうな顔を向けてきた。
「おまえの学業や生活を妨げたくないから、氷河が自分の人生設計を変更すると言っているんだろう。赤の他人をここまで振りまわせているんだ、少しはいい気分でいろ」
「兄さん……!」

いったい いつの間に、兄は氷河の味方になってしまったのだろう。
瞬はごくりと息を飲み、それと共に反論の言葉をもまた喉の奥に押しやる羽目に陥ってしまった。
「一度行ってみたらどうだ? おまえ、氷河に会うまでは、ルーブルやオルセー美術館に行ってみたいと言っていたじゃないか。金なら出してやるぞ」
思ってもいなかった兄の言葉に黙り込んでしまった瞬とは対照的に、一輝の加勢を手に入れた氷河は更に意気込みを増し、その説得はいよいよ熱を帯び始めた。
「瞬が望むならヨーロッパ中どこにでも連れていってやる。美術品に興味があるのなら、そちら方面の研究者を何人でも引っぱってきて、瞬のための講義をさせるようにしよう。我が家のコレクションもすべて瞬に捧げる。だから、瞬……!」
氷河自身、よもやこうも簡単に一輝から瞬渡仏の許可を得ることができるとは思ってもいなかったのだろう。
それがゆえ、思いがけず協力的な一輝の態度に、彼は力づけられてしまったらしい。
親代わりでもある兄を瞬が全面的に信頼していることは、氷河も十分承知していたし、だからこそ一輝は氷河にとって、敵にまわせば厄介この上ないが、味方にすればこれ以上ないほど頼もしい存在だったのだ。
その一輝が、いったいどういう心境の変化か、自分に肩入れしてくれているのである。
否が応にも、氷河の士気は上がっていた。

しかし、もちろん 彼が口説き落とさなければならないのは、一輝ではなく瞬なのである。
そして、肝心の瞬はといえば、兄の翻意造反に会って、一層頑なになってしまったようだった。
「残念だけどね、氷河。僕はフランスなんか行く気ないの。僕、フランス語なんて全然喋れないのに、パーティなんか出たって、無知な日本人って思われるのが関の山なんだから。僕が知ってるフランス語なんて、ボンジュールとかコマンタレブーとかアンシャン・レジームとか、あと、氷河が使うモナミだのモナムールだのくらいのものなんだから!」
思い切り眉を吊りあげて怒鳴る瞬に、氷河は微かに顔をしかめた。
「瞬。それはフランス語ではなく日本語だ。発音が全く違っている」
「……!」

語学力に自信がないという理由で渡仏を嫌がっている人間に、そういう正直な評価を下すことは、はたして利口なやり方であろうか。
氷河は利口というよりは、あまりにも正直すぎる男だった。
それで当然、瞬の怒りは増大するのである。
「だからっ! 僕はそんなとこ行かないよっ! フランスなんて、氷河みたいなのが うようよしてるんでしょ。僕、そんなとこ行きたくないっ!」
「しかし、俺はそろそろ瞬と正式に婚約したいし、できれば瞬に一族の者たちと会ってもらって、その上で祝福された婚約をしたい。でなければ俺は、いつまでも 夜半には一輝立ち会いの許ででしか瞬に会えないし、それ以上のこともできないまま、苦しい毎日を送らなければならないことになる」

(そ……それ以上のことなんかされてたまるもんかっ!)
瞬が立腹して唇を引き結ぶ様を、氷河は 自分が瞬の胸中にまで苦渋の種を撒いてしまったのだと誤解したらしい。
彼は すぐに瞬の気を引き立たせるための笑顔を作り、それを瞬の方に向けてきた。
「俺の師にも紹介したいし、友人たちにも見せびらかして……。ああ、しかし、それで皆が瞬に恋をしてしまったら困るな」
(氷河ってば、なに言ってるの、ほんとに!)
氷河はすっかり瞬の渡仏を既定のことにしてしまっている。
瞬は頭痛をこらえるのに必死だった。

「僕は、金髪のグラマー美人じゃないよ!」
「瞬は妖精のように可憐で愛らしい。誰だって夢中になる」
「へえ、氷河、妖精なんて見たことあるの」
「今、見ている」
真顔で言うから恐ろしいのである。
氷河のうっとりしたような眼差しから、瞬は慌てて顔を背けた。
「今の話で思い出したんだが……」
一輝の目の前で瞬を口説かざるを得ないのも、婚約未満なのだから仕方がない――氷河が そう思ってくれていることが、瞬の唯一の救いだった。
背に腹は代えられないし、自分の中には瞬の兄に見られて困るような不誠実はないという自信に満ちている点は、瞬には困りものだったが。

「イングリット・バーグマンがロッセリーニ監督に当てて書いた初めてのラブレターを知っているか」
「なに、それ」
聞いているのかいないのか、見ているのかいないのか、素知らぬ振りを決め込んでいる兄を横目で盗み見ながら、瞬が上の空で氷河に問い返す。
瞬は、ただ一人の味方に裏切られたような失望感に囚われていた。
「『私は英語は堪能で、ドイツ語も忘れていませんが、フランス語は全く忘れ、イタリア語で知っているのは “Ti amoティアーモ”だけです』」
「それのどこがラブレターなの」
かなり投げ遣りな口調で問い返した瞬に、氷河はどこまでも寛大で優しく思い遣りに満ちた恋人の態度を崩そうとしない。
「“Ti amoティアーモ”というのは、イタリア語で『あなたを愛している』という意味の言葉なんだ。瞬もフランス語は“Je t'aimeジュテーム”だけ知っていてくれればいい」
(う〜っ !! )
瞬の堪忍袋の緒は、そろそろ切れかけていた。

「もう、氷河の相手なんかしてられないっ! 僕、もう寝るっ! そんなに連れていきたいんなら、兄さんを連れていけばいいじゃない。兄さん、フランス、好きみたいだから!」
腰をおろしていたソファから立ちあがり、瞬は客間を後にしようとした。
氷河が慌てて、瞬を引きとめるべく腰を浮かしかける。
それと ほぼ同じタイミングで、聞き捨てならない兄の言葉が瞬の耳に飛び込んできた。
「行きたくても行けないんだ。剣道部の先輩から大学部の冬の合宿に顔を出してみないかと誘われているんでな。クリスマスから正月六日明けまで、2週間ほど」
(え……?)

それで瞬は、一瞬にして理解したのである。
なぜ兄が弟のフランス行きを奨励するようなことを言い出したのか、その訳を。
「ひどい、兄さん! 今年の冬は二人してスキー行こうって約束してたのにっ!」
「だから、代わりにフランス行きの旅費は出してやると言っただろうが。仕方ないだろう」
「だって、ずっと前から――去年から約束してたのに……!」
別に兄に約束を反古にされたことが悲しかったわけではないし、悔しかったわけでもない。
兄が将来そちらの方面で身を立てるつもりでいることは瞬も知っていたし、兄の進む道を妨げるつもりも、我儘を言うつもりも、瞬にはなかった。
『そういう訳でスキーに行く約束は守れなくなったから、家で留守番をしていてくれ』と言われたのなら、瞬は大人しく兄の言いつけを守っていただろう。
だが、代替案で『氷河とフランスに行け』と言われてしまうのは、瞬には承服できないことだったのだ。

「もう、いいです! 兄さんも氷河も自分の都合ばっかり! 僕のことなんか、まるっきり考えてくれてないんだからっ!」
言い捨てて、瞬が客間のドアを音を立てて閉じ、廊下に出ていく。
「瞬っ!」
追いかけようとして席を立った氷河を、一輝はまるで動じていない様子で引きとめた。
「放っておけ、氷河。今は少し気が立っているが、瞬はすぐ冷静になる。あと5分もすれば、瞬は癇癖を起こしたことを謝りに戻って来るから、待っていろ。あれは、何につけても波風を立てるのを嫌う子だ」
「そんなことはわかっているが、ただの5分だけでも瞬の心を乱したままでおけるものか!」
一輝が端然と構えていられるのは、彼が瞬と血のつながった兄弟だからである。
氷河には、そんな余裕や自信はなかった。






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