「瞬!」
恋人の心を少しでも早く和らげてやるために、氷河は瞬を追って客間を出た。
2階の自室に閉じこもってしまったのだろうと思っていた瞬が、あにはからんや、客間のドアの脇に俯いて立っている。
氷河は驚いて、一瞬息を飲んだ。
「瞬……?」
氷河に名を呼ばれた瞬がゆっくりと顔をあげ、それから、氷河の瞳を覗き込んでくる。
「僕だって、ちゃんと、みっともないと思ってるんだからね! 一人で勝手にヒステリ―起こして、こんなふうに氷河や兄さんに当たり散らすの……!」
「瞬……」
瞬の落ち着いた声音に、氷河はほっと安堵の胸を撫でおろした。
どうやら瞬は、5分を待たずに“冷静に”なってくれたものらしい。

「氷河だって腹が立つでしょ。僕は、氷河が僕を好きでいてくれるのをいいことに、氷河に乱暴な口きいて、言いたいこと言って、氷河を傷付けるような意地悪な態度とってるんだよ! 僕、自分でも、そんな自分が嫌になって、自己嫌悪に陥ったりするんだから、氷河はもっと嫌でしょ。だから氷河も、もういい加減で僕のこと嫌いになっちゃった方がいいってば! 氷河はとっても優しくて、誠実で、それに金髪だし、青い目だし、綺麗だし、背も高いし、女の子なら誰でも夢中になるんだから。僕なんか追っかけなくても、恋人の なり手なんかいくらでもいるし、大抵の女の子は僕なんかよりずっと優しいんだから。氷河、僕のこと美化しすぎてるんだから。僕なんか、ほんとに詰まんない子なんだから。氷河が思ってるような いい子じゃないんだから……!」

結局瞬は、とことんまで人を傷付けることができない人間なのだった。
いったい他人に傷付けられたという認識を持つことがあるのだろうかと疑ってしまいそうな氷河のような人間に対しても。
その性癖が、いわゆる“優柔不断”というものと等号で結ばれるものだとわかっていても、瞬にはどうしようもなかった。
先程自分のとってしまった態度のせいで、瞬は目一杯自己嫌悪に陥ってしまっていたのである。
氷河は、瞬の訴えに、ほんの少し驚いた表情になり、それから、目許に微笑を刻んだ。
「瞬は、人の褒め方が巧みだ」
「氷河……!」
我儘な恋人の反省の言葉をわざと取り違えてみせる氷河に、瞬は眉根を寄せ、泣きたい気持ちになった。
世の中に、自分が意地悪をしている相手に優しくされてしまうことほど つらいことはない。
が、氷河は、瞬に、その先を言わせなかった。

「愛されていることに甘えきってしまわない瞬が好きだし、誰よりも優しく繊細な瞬が好きだ。瞬が俺を愛してくれる可能性が少しでもある限り、俺は瞬を愛し続けるし、その可能性がなくなってしまっても、俺は瞬を愛したままだと思う。俺は千回でも一万回でも――いつまでも永遠に、瞬の愛を求め続ける。だから、瞬……!」
「……」
「瞬に何をしてほしいわけでもない。俺はただ、俺が瞬の側にいられる時間をほんの少しでも長びかせたいだけなんだ。頼む、瞬。一緒にフランスに来てくれ……!」
「……」
まずいのである。
つい先程までいじめていた相手に、これほど切なそうな目で迫られてしまうと、瞬にはやはり彼を突き放してしまうことができなかった。

「……ほんとに一緒に行くだけでいいの……?」
まるで自分の声ではない声を聞くような気持ちで、瞬は低く氷河に尋ねた。
氷河が、ぱっと瞳を輝かせる。
「もちろんだ! ありがとう、瞬!」
両腕を伸ばし、氷河はしっかりと瞬を抱きしめてきた。
「瞬は何をしてもいいんだ。瞬が誰よりも優しいことは、俺にはちゃんとわかっているんだから。少しくらいの我儘ならむしろ俺は歓迎するだろう。そんなことくらいで、俺が瞬を誤解したりすることはないんだから、瞬は安心していていい」
(でも、僕、時々すごく意地悪になるのに……)
氷河の胸の中で、瞬は複雑極まりない思いでいた。
はっきり氷河を突き放してしまう方が氷河のためになるのだと自覚認識しつつ、それを行動に移してしまえない自分が嫌いになってしまいそうな――そんな気分だった。

「可愛い瞬! 俺は瞬を愛している。永遠に瞬だけだ……!」
(……えっ !? )
自己嫌悪にまみれながら、聞き慣れた氷河の囁きを聞いていた瞬が、突然氷河の胸を突き飛ばす。
「あ……!」
真っ赤に染まった瞬の頬を見て、氷河は自分の失敗に気付いた。
「瞬! す……済まない……!」
「氷河のばかっ !! 」
瞬が後ろを振り返りもせずに、廊下を駆けていってしまう。

その場に一人残されて、氷河は後悔の臍を噛んだ。
つまり、この感動的な場面で、瞬を抱きしめているうちに、氷河の身体が勝手に熱くなってしまったのである。
そして、それを瞬に悟られてしまった――のだ。
それは一人の青少年として極めて自然、極めて健康的な反応だったのだが、なにしろ時と場所が悪かった。
それ以上に、相手が悪かった。
呆然と立ち尽くす氷河の頭を、いつのまにそこに来ていたのか、一輝が鬼のような顔をしてド突き倒してくる。
「貴様を信用してはいるが、万一瞬に不埒な真似をしてみろ! 貴様の命はないものと思えよ!」
「わ……わかっている……! 大丈夫だ。俺は紳士だぞ。この俺が瞬の名誉を汚すようなことをしてたまるか!」

氷河は懸命に自分を抑え、自分自身に言い聞かせた。
婚約するまでは夜半のデートもできず、結婚するまでは愛し合ってもいけないなどとは、日本人とはなんという不便な、そして忍耐強い民族なのだろう。
自ら選んだ道とはいえ、お堅い日本人との恋は、自分の思いに正直すぎるフランス男には、まさに茨の道だった。






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