旅の疲れを癒すどころか、気疲れは増す一方という状態のまま、瞬は今回の旅行のメイン・イベントの日を迎えた。
内輪の集まりと言いながらブラック・タイを要求され、いつのまに用意していたのか、幼稚園の発表会以来着けたことのなかった蝶ネクタイやらタキシードやらを目の前に運ばれて、瞬は、フランス到着後 数十回目の目眩いに襲われてしまったのである。
「俺も日本にいる時は日本の作法に従っていたのだから、瞬もどうか嫌がらずに こちらの作法に従ってくれ。栄光ある共和制の国とはいえ、上流社会は歴として存在するし、俺の母にはロシア亡命貴族の血が入っていて、母方の大叔父や大叔母は気位が高いんだ。サイズは合っていると思うが、裁縫師は呼んであるから、不都合があったら夜までに直すようにしてくれ」
(もう、勝手にしてよ……)

疲れきった様子で頷く瞬を、氷河が心配そうに見やり、その右頬にキスをする。
「大丈夫。誰だって瞬を気に入らないはずはないし、万一そんなことがあったとしても、俺は親族たちより瞬を選ぶ。たとえ何があっても、俺は瞬を愛しているから、瞬は何も心配することはない」
(いっそ見捨ててほしいんだってば……!)
氷河の両親が既に亡いことが、ただ一つの救いである。
実の息子の奇行の片棒担ぎとして氷河の両親の前に出ずに済んだということだけが、今の瞬の精神の安定を支えるただ一つの事実だった。
「父方の大伯母と叔父が二人と叔母が一人、母方の大叔父、大叔母、伯母が一人、俺に対して発言権を持っているのはその七人だけだ。俺が紹介してまわるから、瞬はなるべく笑顔を作っていてくれ」
「なるべく、ね………」

気負い込む氷河とは対照的に、瞬はすっかり気力を失ってしまっていた。
成人した時 氷河が受け継ぐ資産の桁はわかった。
親族の中に両手の指では数え足りないほどの政治家、実業家がいることもわかった。
優雅華麗な環境の中で、氷河のこの性格が育まれたのだということも理解できた。
――古典的表現をするならば、『住む世界が違う』のである。
瞬がやっきにならなくても、いずれ氷河と瞬の進む道は自然に分けられてしまうもののように、瞬には思われた。
(つまり、どっかのお貴族様が、ちょっと田舎に遊びに出て、そこで、自分のお城の庭園では見たことのないペンペン草に興味を持ったってだけのことだったんだよね……)
喜ばしいことのはずなのに、なぜか素直に喜べない。
瞬は、両肩をがっくり落として、その親族パーティとやらに出席したのだった。


いかめしい髭をたくわえた紳士たち、きらびやかなドレスをまとったご婦人方――が、瞬の目には、ヴィスコンティの映画の登場人物か何かのように映り、自分は 映画館に映画を観にきた ただの観客としか思えない。
瞬は、メインゲスト七人への紹介が済むと、そそくさとパーティ会場である大ホールを抜け出した。
彼等の心証を悪くしようが、マナー違反だろうが、そんなことはもう瞬には関わりのないことだった。
(帰ろ……。家帰って、ゆっくり炬燵に潜り込んで、ひとりでミカン食べるんだ。氷河だってもう目が覚めただろうし、止めたりなんかしないよね……)
身に付いた庶民の生活が懐かしくてならない。
ひどく悲しい気持ちで、瞬は荷物をまとめるために自室へと急いだのだった。






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