the supreme being 〜絶対的存在〜


〜 ハナさんに捧ぐ 〜







「氷河?」
瞬がまた、氷河の名を呼んだ。


「なんだ?」
氷河が尋ね返しても、瞬はすぐに横に首を振る。

「ううん。なんでも」


同じことを、今朝から何度繰り返しただろう。
曖昧に、だが、心安んじたような微笑を返してくる瞬を、氷河は問い詰めることもできずにいた。


その瞬の微笑が曇ったのは、夜も更けてからのことだった。



「そういえば、今日は母の日だったんだな」
ベッドの横にある椅子の背もたれに脱いだ上着を投げ掛けながら、氷河がふと呟いた言葉に触れた途端に、瞬の瞳が夕立の空の色のように俄かに掻き曇る。

「しゅ……瞬…!? どうしたんだ!? 」
慌てて瞬の側に駆け寄った氷河に一瞬切なげな一瞥を投げたかと思うと、瞬は、氷河には何も答えずに、そのまま顔を伏せてしまった。

俯いたまま、少しくぐもった声で、呟くように言う。
「忘れてるんだと思ったのに……。だから、安心してたのに……」

言葉にされなかった目的格は、『今日が母の日だということを』。


瞬が、今日一日、幾度も気遣わしげに恋人の名を呼んでいた訳を、氷河はやっと理解した。
雪と氷の聖闘士が、氷の海に眠る母親を懐かしみ、物思いに沈んではいないかと、瞬は朝からずっと心配していたのだ。

氷河は、もちろん、今は亡き母親を愛してはいた。が、死んだ者に向ける愛情と、生きている者に向ける愛情とは、自ずから思いの質が違ってくる。
それは、どちらの方が強いとも深いとも比較しうるものではなかったが、氷河は、今は、自分の目の前で俯いている瞬の悲しげな肩の方が愛しかった。


「おまえが気に病むことじゃないだろう。母親がいないのは、俺もおまえも同じだ」

俯いている瞬の瞳に自分の姿を映し出させようとして、氷河が瞬の頤に伸ばしかけた手は、しかし、
「でも、僕は兄さんがいるから平気だもの」
という瞬の言葉によって、動きを封じられた。

無意識のうちに拳になった氷河の手が、行き場を見失い、そのまま下に降ろされる。


可愛さ余って、憎さ1.05倍。
氷河は、突然、某島国の消費税込み支払い(2000年5月現在)のような憤りにかられて、ぷいと横を向いた。

「なーにが、にーさんがいるからへーき、だ! 幾つになってもにーさんにーさんって、人の心配をする暇があったら、おまえこそ、そのブラコンを早く治せ!」

「そんな…!」

氷河の手にはできなかったことを、氷河の言葉はたやすく成し遂げる。
伏せていた顔をあげ、瞬は、その瞳に、すっかり拗ねてしまった氷河の姿を映しだした。


「僕の兄さんは生きてるんだから、僕が兄さんのこと考えたり、兄さんに頼ったりするのは当然のことでしょ。亡くなった人を想ってる氷河を見てる僕の方がずっと……ずっと辛いんだから! 僕は、ただの生きている人間だから、この先もずっと死んだ人には敵わないんだから!」

瞬の言葉は、冷静に聞けばそれなりに嬉しい言葉だったのだが、氷河はそれには気付かなかった。
とにかく、彼は、瞬の唇から『兄さん』という音が発せられると、判断力が5割方減殺されるのだ。

「いーや。生きてる方がタチが悪い! 死んだ者は永遠に変わらないから、生きている者が死んだ者を思う気持ちも不変だが、生きている者は、おまえの心を変える力を持っているんだ。ただそこにいるだけで充分うっとーしーのに、奴は……!」

「でも、氷河。兄さんは……」

「だいたい、今、ここで俺が死ねば、一生おまえの心に住みつけるんだとしてもだ! 俺がそれを望むと思うか!?  生きていれば、俺は、おまえにとって、今以上の俺になれるかもしれないっていうのに!」

それは、当然、“生きている一輝”にも当てはまることなのである。
だから、氷河は、一輝が邪魔で仕方がなかった。

今でさえ、瞬の中で、一輝は大きすぎる存在だというのに、“生きて”いるせいで、あの男は、瞬にとって今以上の存在になるかもしれないという可能性を秘めているのだ。


氷河のその苛立ちは、瞬にもわかっているらしかった。
「でも、氷河。兄さんは……」

瞬の唇が、また、“兄さん”という音を紡ぎだす。

これ以上、その男の話を聞かされるのが不愉快で、氷河はふいに瞬の手首を掴みあげた。
そして、そのまま、瞬の身体をベッドの上に引き倒す。

「いくら一輝がおまえにとっていい兄貴でもな、瞬。奴は、こういうことはしてくれないだろう? なにしろ、いい兄貴なんだから」
氷河に組み敷かれる格好になった瞬が、怒りのためか、それともそれとは別の感情の作用でか、頬を上気させ、氷河を睨む。
「ずるい! 僕は兄さんのこと話したいのに、こんな……」

氷河の肩を押しのけようとする瞬の手の力に逆らって、尚も不愉快な人称代名詞を口にしようとする瞬の唇を、氷河は自分の唇でもって封じ込めた。

「一輝の話は、もう打ち切りだ。奴のことを考えてる暇があったら、もっと俺に夢中になってくれ」
「そんなのって……。自分だけ言いたいこと言って、僕には何も話させてくれないなんて、そんなの、ずる……ん…っ!」

尚も抵抗しようとする瞬の唇を、再度ふさぐ。

そのキスのせいで、瞬が反駁の意思を手放しかけたのを確かめてから、氷河は、諭すように、瞬の耳元に囁いた。

「もう口を開くな。おまえは礼儀を弁えた奴だから、俺とこうしている時に、一輝のことを考えるなんて失礼はしないだろう? これから朝まで、おまえが口にしていいのは、俺の名前だけだ」

敵にも敬語を使う礼儀正しい聖闘士は、氷河の指と唇の説得に他愛もなく陥落した。 






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