ラウンジでは、瞬以上に切羽詰った星矢と紫龍が、必死の形相で、アテナ沙織の説得に挑んでいた。 沙織は、つい先程、地上の平和を守るために(?)ダイエットなるものに挑戦するという宣言を下したばかりだった。 そして、アテナの聖闘士たちも、当然アテナと運命を共にすべきだ――と。 「沙織さんには、ダイエットなんて必要ありませんよ」 「ダイエットするにしてもさー、俺たちまで付き合わせることないんじゃないかー? 育ち盛りの俺たちに、毎日、ワカメと昆布とヒジキとコンニャクだけの食事は、試練を通り越して拷問だぜ」 星矢と紫龍の意見は至極尤も、常識的、だった。 しかしながら、神は傲慢である。 「まあ、あなたたちは何てことを言うの! あなたたちは、仮にもアテナの聖闘士なのよ。アテナと苦難を共にしてこそ、聖闘士としての本分を全うできるというものでしょう」 「…………」 「…………」 神の命令に、非力な人間は抗う術を持たないのだろうか。 人間は、神の前にひれ伏すためにだけ存在しているのだろうか。 たとえそうだったとしても、無駄とわかっていても、人間には神との戦いに挑まざるを得ない時というものがある。 今が、その時だった。 「……いえ、我々は、アテナと共にダイエットに挑むのが嫌だと言っているわけではないんです。沙織さんにはダイエットの必要などないと……」 「あるわ!」 果敢な紫龍の訓戒は、言下に一蹴された。 「あるわよ、大いにあるわ。ああ、氷河、ちょうどいいところに」 来たくて来たわけではない氷河は、沙織のご指名を受けても、嬉しくも何ともない。 先程の自身の早とちりに落胆していた氷河は、今この場で何が討議されているのかを確かめるのも億劫だった。 そんな氷河に、事の次第の説明もせずに、沙織が尋ねる。 「ねえ、氷河。あなた、私と瞬のどちらを可愛いと思って?」 「へ…? そりゃ、瞬の方が何倍も……」 事の経緯も知らされていない上、沙織のそれがあまりに突然の質問だったので、虚を衝かれた格好の氷河は、咄嗟に嘘がつけなかった。 実に正直な氷河の返答に、星矢と紫龍が舌打ちをする。 「ほら、御覧なさい。この私より、男の子の瞬の方が可愛く見えるというのは、瞬が私より痩せているからだわ! あなた方は、それでもいいと言うの? あなた方が主君と戴く女神が、美しさで男の子に劣ると言われるなんて!」 「あ、いや、沙織さん。そーゆー意味じゃない。沙織さんより瞬の方が可愛いのは、瞬が細いからなんじゃなく、もともとの顔の作りとか性格とかが沙織さんとは段違いに出来がいいという意味で――」 星矢と紫龍は、氷河のシベリア仕込みの顔面封じ技に、思わずぴきん☆と凍りついてしまったのである。 詭弁・瞞着・理外の理を得意とする口先オトコが、よりにもよってこういう場面で、なんという失言だろう。 何故こういう時にだけ氷河は正直なのかと、星矢と紫龍は氷河に殺意さえ覚えていた。 それから、二人は、恐る恐るアテナを仰ぎ見たのである。 彼らは、神の怒りを、これほど怖れたことは、かつて一度もなかった。 当のアテナは―― アテナは無言だった。 沙織と瞬とでは、もともとの顔の作りが違う。 お嬢様育ちの沙織は、瞬に比べて性格がきつくて我儘。 世間に流布しているその一般論を認めたくないからこそ、『アテナよりアンドロメダの聖闘士の方が可愛いと言われているのは、瞬の方が痩せているからだ』という無謀な理屈に逃避しようとしていた沙織だった。 それ故の、今日の日のダイエット宣言だったのである。 だというのに――! 「氷河……!」 氷河らしからぬ失策に、瞬は、ほとんど泣き出しそうだった。 瞬は、氷河なら沙織のダイエット宣言をうまく撤回させてくれるだろうと見込んで、この場に彼を引っ張ってきた。 それなのに――! がっくりと肩を落とし、瞬は蚊の鳴くような小声で氷河に告げた。 「沙織さん、河田さんまで首にするって言ってるんだよ……」 「なに?」 瞬の悲しげな言葉に、氷河の口許が微かに歪む。 河田パティシエは、瞬のお気に入りの城戸邸お抱え洋菓子職人だった。 日本のオーヴォン・ビュータンで修行を積んだ後に渡仏。フランスの三ツ星レストランのメインパティシエとして活躍し、帰国後も日本の有名ホテルでその腕をふるっていたのだが、数年前に、『売るためにではなく、本当に洋菓子の味のわかる人のためにケーキを作る生活をしたい』と言って第一線を退いた。 その彼が見付けた“本当に洋菓子の味のわかる人”というのが、何を隠そう、今氷河の目の前にいるアンドロメダの聖闘士だったのである。 氷河も、彼にはこれまで幾度も世話になっていた。 河田パティシエに作ってもらったケーキを持っていけば、どんなに瞬の機嫌を損ねた時にでも、瞬は笑って氷河を許してくれる。 河田パティシエは、氷河にとって恋と愛の恩人だった。 あの有能な人物を、失うわけにはいかない。 瞬にとってそうであるように、氷河自身にとっても、河田パティシエは大切な存在だった。 さて。 事態の深刻さが飲み込めれば、氷河はその打開に前向きな男である。 彼は、瞬のため、河田パティシエのため、そして何よりも自分自身のために、得意の詭弁を弄し始めた。 否、それは詭弁でも虚言でもなかった。 真実を、真実の重みを、氷河はアテナに訴えたのである。 「沙織さん」 氷河は、アテナのプライドを尊重して、沙織にだけ聞こえるように、低く言った。 「俺はあんたのダイエットを止めようとは思わないが、これだけは言っておく。もし、あんたがダイエットを完遂して、今より10キロ痩せた時、それでも瞬の方が可愛かったら、あんた、いったいどーする気だ?」 「…………」 アテナは知恵の女神である。 故に、彼女は聡明だった。 氷河の忠告の意味するところを即座に理解し、そして、即座に賢明な判断を下した。 つまり。 彼女は、にっこりと慈愛に満ちた微笑をその口許に浮かべ、潔く前言を撤回したのである。 「そうね。みんながそれほど言うのなら、私、みんなのために、今回のダイエットは見送ることにするわ」 「アテナ……!」 「さすがは沙織さんだ!」 「僕、嬉しいです、沙織さん…!」 歓喜に瞳を輝かせるアテナの聖闘士たちを一渡り見まわして満足そうに頷くと、沙織は女神らしい堂々とした様子でラウンジから退室していった。 何がどうなっているのかわからないまま、それでも、星矢・紫龍・瞬は、ほっと安堵の息を洩らすことになったのである。 |