瞬が泣き、氷河が慰めるという、ありがちな構図が展開される中、突然顔をあげた瞬が、実に素朴な疑問を口にしたのである。

「どーして、氷河は泣かないの。あんな悲しいお話を見たのに」
「…………」

『俺は見たくもないのに、おまえのガキ趣味に付き合ってやっていたんだ』と、本当のことを言うわけにもいかなかった氷河は、例によって例のごとく、大得意の詭弁を弄することになった。

持てる演技力をフル稼働して作った表情と口調で、優し〜く瞬に告げる。
「泣きそびれてしまったんだ。おまえがあんまり泣くから」
「え……」

氷河のその言葉に、瞬の涙がぴたりと止まる。
これまでいつも、『泣くのは瞬で、慰めるのは氷河』という状況を不思議とも思わず受け入れてきた自分を、瞬は今夜初めて訝った。

「ぼ…僕のせいで、氷河が泣けないの…? 僕が泣き虫だから?」
「あ…いや、そーゆーわけでは……」

そーゆーわけではないのである。
しかし、幼稚園のガキでもあるまいし、男がそうぴーぴー泣いていられるか、みっともない――とは、これまた言いにくい。
氷河自身、瞬が泣いている様をみっともないと思ったことは一度もないのだから、尚更だった。

瞬が泣いているのは可愛いのである。
瞬が泣いているのを見るのは、どういう場合でも、氷河は好きだった。
というより、むしろ、氷河は、泣いている瞬を慰めてやることが好きだったのである。
それがベッドの上でのことだったりした時などは格別に。


「そーゆーわけじゃなかったら、どーゆーわけなの? 泣かないなんて、だって、変だよ。悲しいことがあったり、自分の大切な人が悲しんでるのを見たりしたら、人は泣くんだよ。悲しいことが起きた時には涙を流して少しでも悲しいことを自分の外に追い出してしまえるように、人の心を守るために、神様が人の身体をそういうふうに作ってくれたんだよ! それなのに……」

瞬は、『泣いた赤鬼』が悲しいといっては泣き、小鳥が怪我をしたといっては泣き、猫が捨てられているのを見ては泣く自分自身を、全く自然な、かつ、全く尋常な人間であると思っていた。
人間の身体と心は、そういうふうにできているのだから、そういう反応は一人の人間として当然のことなのだ――と。


「おまえは嬉しいことがあってもすぐ泣くじゃないか」
軽い気持ちで口にした一言が、事態をおかしな方向に向かわせていることに気付いた氷河は、慌てて軌道修正を試みた。
しかし、それは些か遅きに過ぎた対処だったらしい。

「だって、それは……。嬉しい気持ちは、だって、自分だけで独占しちゃいけないでしょ。みんなに教えてあげなくちゃ。僕が嬉しくて泣いてるの見たら、氷河だって嬉しくなるでしょ」
「まあ、それはそうかもしれないが……」

『おまえを嬉しがらせているのが一輝でさえなければ…』と、本音を言ってしまうほど、氷河はバカでもなかったが、しかし、それを言わないにしても、瞬のその理屈には、超巨大な穴がある。

瞬が嬉しいことを知った氷河がその事実を喜べるのは、氷河が瞬を好きだから、だ。嫌いな相手の嬉し泣きほど、見ていてムカつくものはない。


それはともかく。


“泣けない氷河”を憂えて心を痛めている瞬のために、氷河はとにかく、瞬の前で泣いて見せなければなかった。
自分が泣かないのは、泣くことを我慢しているのではないということを瞬に示し、瞬を安心させてやらなければならない。

そうしてやらないことには、おそらく、今夜、この後の予定が思いっきり狂うことになるだろう。
氷河には、今夜も、昨夜までと同様に、したいこと・しなければならないことが目白押しだったのだ。
もちろん、その予定の中には、“瞬を泣かせる”という楽しい計画も入っている。否、それこそが、氷河の毎晩の多忙なスケジュールの主目的だった。


「瞬……」

目一杯シリアスな表情を作って、氷河は瞬の肩をそっと抱き寄せた。
“氷河が泣けない”ということが、瞬には耐え難いほど悲しいことだったらしく、その瞳は既に涙に潤んでいる。
氷河は、切なげな目をして自分を見上げる瞬を見て、ごくりと唾を飲み込んだ。

この瞬をさっさと押し倒して、もっと泣かせてやりたいーっっ!!!! とはやる心を抑え、殊更ゆっくりと瞬の頬に手を添える。

「……瞬。俺は泣けないわけじゃないんだ。泣くのを我慢しているわけでもない」
「嘘…! だって、そんなの変だよ…! 氷河、絶対、僕のせいで泣くのを我慢してるんだ!」

『今、俺が我慢してるのは別の事だ』とは、もちろん氷河は口にはしなかった。

代わりに、
「そんなことはない。おまえが俺の涙を見ていないだけだ」
と、顔だけは真面目に言ってみる。

「え…?」

いつも、どこでも、何があっても、誰よりも氷河の姿を目で追っている自分を自覚していた瞬に、氷河のその言葉は、意外というより心外だった。

「氷河……もしかして、僕の見てないところで泣いてるの…?」

そんな悲しいことを、もし氷河がしているのだとしたら、瞬にはそれこそ耐え難いことだった。

今にも零れ落ちそうなほど瞬の瞳に盛り上がってきた涙が、ますますもって氷河を刺激する。
それでも、この場はシビリアンコントロールならぬマインドコントロール。身体を心で制御しなければならない。

「そうじゃない」
瞬の顔を上向かせ、氷河は瞬に(その内心の焦りはともかく、表向きは)穏やかに、尋ねた。


「何が見える?」

「氷河」

「俺の?」

「目と鼻と唇と…」

「目の中に」

「…………」


氷河に問われた瞬が、氷河の青い瞳を覗き込む。
瞬は、そして、それまで見えていなかったものを――見えていたのに、それと気付かなかったものを、その視覚で初めて捉えた。

「涙だ。氷河の涙」

それが本当に氷河の涙だったかどうかは、この際問題ではない。
もしかしたらそれは瞬自身の涙だったのかもしれないが、そんなことも考えるだけ無意味である。
瞬には、それが氷河の涙に見えた。
それが肝心なことなのだ。


無論、瞬が今その瞳に涙を浮かべていなかったとしても、氷河とて一応人間なのだから、瞳が涙で覆われているのは当然のことなのではあるが。


「氷河、泣いてるの?」
「おまえが俺のことを気遣ってくれているのが嬉しいから」


「泣いてるんだね」
そんなことを喜んでしまう自分に罪悪感を覚えつつ、それでも瞬は氷河の涙が嬉しかった。

氷河の涙にうっとりとみとれ、しばしの後、はっと我に返る。

「いやだ、僕。氷河が泣いてるのが嬉しいなんて…。そんなの変……」

瞬が“変”になっていたのは、実は、瞬の腰にまわされた氷河の手が何やら怪しげな動きを示し始めていたせいだったかもしれないが、瞬は自分に与えられている妙な刺激を、感じはしていても意識はしていなかった。

「駄目。やっぱり、氷河、泣かないで。そんな、僕が氷河のこと気にかけてるなんて、当たり前のことで」

切なげにそう告げる瞬の瞳や唇は艶を帯びてきていた。
そして、瞬自身は、それを、自分が氷河の涙に感動しているせいなのだと錯覚していた。自分の身体と心が疼いているのが、実は氷河のやらしー手のせいであるという事実になど、瞬は思い至りもしなかった。


狙い通りの反応を示し始めた瞬に内心ご満悦状態の氷河が、そろそろ良い頃合いだろうと、本題に入る。
「そうだ…な、瞬。涙の話はもうやめよう。俺たちには悲しむようなことなんかないんだから、こんな話を続ける必要はない」
「う……ん…」

氷河の言葉に頷き、氷河の指やら腕やら唇やら視線やらの誘いに屈して、氷河に促されるままベッドに移動した後も、しかし、瞬は氷河の涙に心を奪われたままだった。

氷河の瞳の奥に初めて見付けた、その美しいものを、瞬はもっと見ていたかったのである。






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