無限の空に浮かぶ天の河の東と西で、瞬と氷河がそれぞれに天帝の意に適う仕事をし遂げたことが、すべての発端だった。

瞬が見事な雲錦の天衣を織りあげ、氷河が素晴らしい神牛を育てあげたことが。
二人の仕事をことのほか喜んだ天帝が、その仕事の褒美として、二人に二人を与えたことが。


「僕は、天帝の命令に従った。僕にとって天帝は絶対の存在で、その命令に逆らうなんて、僕には思いもよらなかった」
涙も枯れ果てた瞬が、氷河の胸にもたれ、呟くように言う。

「突然会ったこともない人のところに連れていかれて、『おまえはこの男のものになったから、共に暮らせ』って言われて、でも、僕は、そんな僕の意思を無視した命令にだって従った。初めて氷河のとこに連れてこられた時、僕がどんなに恐かったかわかる? その怖れにだって、僕は耐えた。これは天帝の命令なんだから、僕を創った神の命令なんだから、僕は大人しくこの人のものにならなきゃならないんだ…って、自分に言いきかせて」

「そうだったな……。おまえはずっと俺の腕の中で震えていた……」


その時と同じように、だが、あの時とは違う理由で、瞬は今も震えている。

今は、初めて会う男に征服されることへの怖れからではなく、間もなく訪れる朝の光に怯えて。



「あの時まで、僕は天帝の人形だった。天帝が機を織れって言うから、機を織った。天帝が見知らぬ男のものになれって言うから、氷河のものになった。僕は天帝の言いなりの人形だった。氷河に会って、氷河を好きになるまで」

「瞬……」


「氷河に会って、僕は意思を持ったの。僕は氷河を好きになった。だから、いつも一緒にいたいと思った。それは、天帝の意にも適うことのはずだったでしょ? 天帝の仕組んだことの結果でしょ? それがなぜいけないの。僕はただ、いつも氷河と一緒にいたいだけ。氷河が好きで、氷河と離れたくなくて、だから――」


だから、ほんの少し、機織りの仕事が手につかなくなっただけだったのだ。


その報いが、この永劫の苦しみだとは。

恋し合う者たちに、これほど過酷な罰があるだろうか。

会えるのは一夜だけ。
愛し合えるのは、この短い夜の間だけ。


瞬には、わからなかった。

これほど残酷な罰を受ける、どれほどの罪を自分が犯したのか。


恋しい者の面影だけを抱きしめて過ごす長く無為な時間の果てに、やっと巡ってくる短い夜。どれほど夢中になって互いを求め合ったところで、この短い一夜に、すべてを燃やし尽くすなど、到底無理なことである。

求めても求めても、与えても与えてもまだ足りない――そんな思いに苛まれながら迎える残酷な朝。

その朝が、すぐそこまで、足音を忍ばせつつも確実に近付いてきている――のだ。



「僕は――僕たちは、そこまで天帝のものなの! 僕たちを創った絶対者のものなの! それなら何故、天帝は僕たちに意思を与えたの。意思を持って、その意思に従って動くものが気に入らないのなら、天帝は最初から意思の無い人形を創ればよかったんだ!」

「瞬……」



氷河が初めて瞬に会った時、瞬はまさに、その“意志の無い人形”だった。
初めて出会った男の前に、虚ろな瞳で身体を投げ出し、どうにも拭い去れない怖れを耐えるだけの。


その人形が、自分を抱く男の――おそらく、人形にとって、それは思いがけないものだったのだろう――優しさに触れて、自らの意思に目覚めるまで。


意思を持った人形は――瞬は――激しく燃えさかる炎に変じた。

その炎に巻き込まれるように氷河は瞬に溺れ、そして、その二人を待っていた罰――。


天帝が与えたその罰さえ、瞬という炎を更に大きく激しくするものでしかなかったが。



「天帝は僕たちが苦しむのを見て笑ってるの? 楽しんでるの? 氷河に会えなくて泣いてる僕を哀れんで、慈悲深い天帝様は、天の河に橋を架けてくれるんだって! 何が慈悲深いの! どこが慈悲なの! 天帝は、僕みたいなものを創らなければよかったんだ。意思のあるものが気に入らないなら、さっさと僕を消してしまえばいい! それをしないのは残酷だよ! 天帝が、ほんとに僕を哀れんでいるのなら、さっさと僕を消してしまうべきなんだ!!」


瞬のこの激しい嘆きは、天帝の耳に届いているのだろうか。

瞬の望みが叶えられることを怖れた氷河は、両の腕で瞬の身体を強く抱きしめて、その言葉を遮った。
やわらかく波打つ髪に唇を押し当て、懇願するように告げる。

「瞬。それ以上言うのはやめてくれ。本当におまえが消されてしまうようなことになったら、俺は……」

「氷河……」


消えてしまったら、もう、この青く優しい瞳に見詰められる夜もない。
それは、瞬にも耐え難いことだった。



二人の目の前にある、星の大河。

天帝の命によってカササギが架ける一夜だけの橋。


その美しい橋から視線を逸らして、瞬は氷河の背に細い腕をまわしていった。

「いやだ……。僕自身を消されて、氷河に会えなくなるのは……。そんなの、僕、耐えられない。どんなことになっても、僕は生きて存在したい……。氷河に会うことのできる世界に生きていたい」

たとえ、その存在の始まりが自分の意思でなかったとしても。


「ああ。そうだな」

強く激しく儚く愛しい恋人の嘆きを、氷河は唇で受け止めた。

こうして寄り添っていられる時間は短い。


嘆きよりも共にしたいものを二人の内に閉じ込めるために、氷河は瞬の身体を抱き寄せ、そして、雲と星の褥に横たえた。






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