「ボルシチでいいか?」

悲壮な決意を周囲に漂わせつつ、氷河は瞬に尋ねた。

「氷河…!」

氷河のやる気を目の当たりにした瞬の瞳が、春のスピカ、夏のアンタレス、秋のフォーマルハウト、冬のシリウスもかくやとばかりに、明るく輝く。

「僕、氷河が作ってくれるのだったら、何だって食べるよ!」

そんなことは言わない方がいいのでは?――という筆者の心配をよそに、氷河の決意を聞いた瞬の心は、すっかり浮かれまくっている。
氷河が“お料理のできるカッコいい人”になることができたなら、誰よりも氷河自身が嬉しいに決まっている――と、瞬は信じて疑いもしていなかった。

瞬の信念は、決して、全くの誤りではない。
事実、美味しい手料理で瞬を喜ばすことができたなら、それは、料理を作った氷河自身にも大いなる喜びをもたらしていたことだろう。

氷河に、美味しい手料理ができたなら――。
氷河に、美味しい手料理ができたなら、である。


単純にして困難至極なその仮定文に挑む氷河の心は、今、千々に乱れていた。

(か…簡単なはずだ。ボルシチなんてのは、つまり、野菜を煮込んで食えるようにしたもののはず……)

氷河の認識もまた、誤りではない。
誤りではないのだが。



氷河は、山と積まれている材料の中から、まず、一本のニンジンを手に取った。野菜の皮を剥くなどということを考えもせず、まな板などというものの存在も知らない氷河は、とにかくこのオレンジ色の物体を一口大に切ればいいのだと考えて、その通りにした。
すなわち、自分の手の平に乗せたニンジンに、すぱっと包丁を入れたのである。

当然、次の瞬間、切れていたのは、ニンジンと彼の左手。

瞬は、赤い線の走った氷河の手に、びくっと肩を震わせた。


あとは、もう、食材が違うだけで結果は全て同じだった。
キッチンのあちこちに転がった、血まみれのジャガイモ、牛肉、赤カブ、玉ねぎ、キャベツ――。


しかし、氷河は少しも痛みを感じてはいなかった。痛みを感じている余裕など、彼にはなかったのである。
黄金聖闘士などより100万倍は手強い食材たちに挑む氷河の必死の形相には、鬼気迫るものがあった。







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