「もう、いい。やめて、氷河!」

眼前に展開される地獄絵図に呆然自失していた瞬がやっと我に返り、悲鳴にも似た声をあげる。
瞬は、事ここに至って初めて、自分の愚に気付いたのだった。

「もうやめて。お願い、氷河」

ついに出た瞬のお許しに、しかし、氷河は血まみれの包丁を手離そうとはしなかった。
「しかし、おまえは俺に、美味い手料理をカッコよく作れる男になってほしいんだろう。俺はおまえのためになら、絶対になってみせるぞ、料理のできるカッコいい男とやらに」

瞬の叫びに少しばかり緊張の糸の切れかけた氷河が、荒い息で両肩を上下させ、言う。
瞬は、切なげな眼差しでそんな氷河を見やり、左右に首を振ったのである。

「その前に氷河の手が無くなっちゃう」

「そうなったら、包丁を口にくわえてでも、きっと俺は、おまえに美味い手料理を……」

信じ難い話ではあるが、氷河は結構本気だった。
それで瞬が喜んでくれるのならと、彼は本気で思っていた。

氷河のその無謀とも言える決意を聞いた瞬が、瞳を見開き、そして、一粒涙を零す。

「いいの。美味しい手料理なんか作れなくても、氷河は優しくてカッコいいもん。僕がいけなかったの。ごめんね、氷河、我儘言って」

そう言って氷河の側に駆け寄った瞬は、有無を言わさず彼の手から包丁を奪い取り、傷付いた氷河の手を癒すため、自らの小宇宙を全開にした。

「瞬……」

『たとえこの命尽きようとも、瞬のために美味い手料理を!』という、氷河の決意が嘘だった訳ではない。嘘だった訳ではないのだが、氷河が瞬のその言葉にほっと安堵の息を洩らしたのもまた、動かし難い事実だった。

「……すまん、期待に応えられなくて」
「ううん。誰にだって得手不得手ってあるよね。僕がいけなかったんだ。僕、氷河は何でもできる万能人間なんだって勝手に思い込んじゃってたの」

「…………」

氷河は、実は、瞬にそういう男だと思われていたかった。
これはまあ氷河タイプの男としては至極当然の望みではあったろう。

何でもできる万能人間が恋人ならば、瞬は氷河に頼りきって、他の人間を必要としなくなってくれるかもしれない――のだから。

“誰にでも優しく親切”は、既に瞬の身についた第二の本能のようなものであるから、その次元で瞬を独占することは諦めるにしても、せめて、氷河は、瞬に必要とされるただ一人の人間でいたかった――そういう男になりたかったのである。



たとえ、それが、見果てぬ夢だったとしても。
非現実的な望みだとしても。
そして、それが、瞬自身のためにならない願いだったとしても、である。


瞬だけがいてくれればいい氷河には、それは必然と言っていい望みだった。







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