「今回のターゲットはこの子か?」 プリンターが印刷し終わったカラー写真を手に取って、氷河はカミュに尋ねた。 「滅茶苦茶可愛いお嬢ちゃんじゃないか。これが、どこぞの会社のお偉いさんか、どこぞの研究所の天才科学者なのか?」 東京の某所。 表向きは民間の調査機関、内実は、北方に広大な国土を持つ某々国の息のかかった半官半民の諜報機関の某々々オフィス。 社会主義から資本主義への体制移行に伴って、ここに持ち込まれる仕事も最近では、政治・軍事のことよりは産業技術に関することの方が多くなってきている。 故国の某諜報機関の過去の栄光にしがみついているにはあまりにも若すぎたこのオフィスの責任者は、体制の変化の波を見事に乗りきり、現在でも故国への多大なる影響力を維持しているようだった。 ――氷河は、そんなことにはあまり関心を抱いてはいなかったが。 日本での暮らしに慣れた彼にとって、故国は決して帰ることにない異国以外の何物でもなかったのだ。 「グラード財団のゲノム・ラボラトリーの所長だ。総帥と血縁関係があるらしくて、2年前にとんでもない若さで所長に抜擢された」 「ふーん。で、狙いは」 プリントアウトされた写真から目を離さずに、氷河がカミュに先を促す。 氷河が、その写真から目を離せずにいたのは、写真に写っている今回のターゲットが、これまでのターゲットたちとは極端に趣を異にしているせい――ばかりではなかった。 「もちろん、遺伝子情報だ。特に癌の遺伝子治療に有効な遺伝子情報だな。遺伝子情報の特許がグラード財団にあって、その情報を使っての治療には特許料がかかる。まだ研究が不完全だとグラード側は言っているが、特許申請が認められているんだ、研究は実用化できるところまで進んでいると言っていいだろう」 「それをグラードのコンピューターから盗み出し、グラードより少しばかり安価に、いー加減な遺伝子治療をして、金持ちのおっさん共から金をせしめようとしている裏の企業が、我等が祖国にあるというわけだ」 「不満か? そーゆー下衆のために動くのは? だが、結局はそういう企業が外貨を獲得して我が国に利益をもたらすんだ」 「故国を離れてこの島国で暮らしている身としては、国が潤おうが窮乏しようが関係ないな。俺は、俺の貰う報酬が確実なら文句はない。しかも、こんな可愛子ちゃん相手なら願ったり叶ったりだ」 「報酬は、失敗した時の制裁と同程度に確実だ」 カミュは若すぎて自信過剰気味の部下に釘を刺したつもりだったのだが、これまで“成功”の二文字にしか縁がなかった氷河には、カミュの忠告を重みのあるものとして受け取ることはできなかったようだった。 報酬の確約を告げる言葉にのみ反応して、氷河は軽く顎をしゃくった。 「欲しいのは、グラードのラボのホストコンピュータのパスワードだ。知っているのはグラードの総帥とこの子だけなんだが、総帥の方はガードが固くてな」 「総帥ってのは、あの城戸沙織のことだろう。こっちのお嬢ちゃんの方が俺好みだ」 「では、頑張ってくれ」 カミュが話を早く切り上げたがっているのは、この世界向きのキャラクターではない氷河にも容易に見てとれた。おそらく、他のエージェントがこのオフィスにやって来る時刻が迫っているのだろう。20歳を過ぎた頃から約5年間、氷河は全く愛想のないこの上司と付き合っているが、彼は未だにこのオフィスに出入りする他のエージェントをただの一人も知らなかった。 「この可愛子ちゃんの名前は?」 「瞬……苗字は城戸になっている」 「OK。どーせ、天才科学者のご多分に漏れず、純粋培養、初恋も知らないウブな娘なんだろう? 俺にかかったらちょろいもんだ」 「ほとんどその通りだが、一ヶ所違うところがある」 「何だ?」 それまで無愛想の極致だったカミュが、僅かばかり口許をほころばせる。 そして、彼は、妙に嬉しそうに氷河に告げた。 「この子は――城戸瞬は、ウブな娘ではなく、ウブな坊やだ。今回ばかりは、おまえの得意の色仕掛けは使えないだろう」 「なに〜〜っっっ!!??」 楽しい仕事の予感が突如一変。 氷河は、散々カミュに毒づいてから、しぶしぶ新たな任務に取り掛かることになったのだった。 |