本気になりかけていると思い始めた時には、人は既に本気になっているものである。
いい加減この上ない姿勢で自分の人生と付き合ってきた氷河が、それでもこれまでさしたる挫折を味わうことなくやってこれたのは、危険察知能力と決断力に優れていたからだった。


瞬を相手に狡猾なスパイを演じてもいられない自分を発見すると、氷河はさっさと、瞬を相手の産業スパイごっこから降りることを決めたのである。
瞬を騙すくらいなら、ガードの固いグラード財団総帥を向こうに回した大博打に出る方が余程ましなような気がしたのだ。


のだが。

「これだけ時間を割いて付き合ってもらったら、もう大体記事にはまとめられると思うから、今日で瞬の取材は終わりにしようと思う」
「え……?」

取材という名の会見と密会とを幾度も重ねた後の氷河の決断は、少々遅きに過ぎたらしい。自分のためでもあったが、それ以上に瞬のためだったその決断は、瞬の涙という思わぬ抵抗に会い、頓挫することになってしまったのである。


最後の休日を終えかけたつもりでいた氷河に、取材を――すなわち、休日ごとのデート(もどき)を――打ち切ると言われた途端、瞬がその瞳に涙をにじませる。
そして、氷河が気付かぬ振りをするのを妨げるように、瞬の瞳に盛り上がってきた涙は、すぐに丸い透き通った雫になって、瞬の頬に零れ落ちた。

「もうお会いできないんでしょうか」

切なげに身悶えるような瞬の訴えに、氷河は軽い目眩いを覚えていた。
こういう時に限って素直な子供でいてくれない瞬が恨めしいような気もし、逆に嬉しいような気にもなる。

「また、何かの機会があれば」
「嘘……きっと氷河はもう……」

「…………」

瞬の涙に抵抗するのは、至難の業ではあった。
これは嘘なのだと自分に言い聞かせるような嘘を、氷河はやっとの思いで口にした。
「また会いにくる」

が、子供はそういう類の大人の嘘には敏感である。
瞬は左右に首を振って、氷河の嘘を嘘と断じた。

「嘘」

「本当だ」
「嘘。僕が子供だと思って、氷河は、その場しのぎの嘘で誤魔化そうとしてるんだ」
「そんなことはない」

瞬が自分との別れを厭うのは決して恋という感情からではなく、子供が気に入りの玩具を奪われまいとして駄々をこねてるのと同じなのだと、氷河はまたしても自分に言い聞かせる羽目に陥った。
たとえ恋という感情からでなくても、別れを忌避する瞬の我儘を喜んでいる自分が自分の中にいることを、苦々しく自覚しながら。

そんな氷河の迷いに気付いているのかいないのか、子供は自分の欲しいものを失うまいとして必死である。
車は既に研究所の門前につけてあるというのに、確実な後会の約束を得るまでは梃子でも動かない構えで、瞬は悔しそうに言い放った。

「僕、子供じゃないです!」

そういうことを向きになって言い張るのが子供なのだと、氷河は言ってしまうことができなかった。
その子供に惚れてしまった自分は何なんだという疑念と、ここで瞬を大人扱いしてやれば、瞬もおとなしく引き下がってくれるのではないかという目算と、そして、瞬にはただの子供でいてほしくないという熱望とが、氷河の胸中を乱して、志向の向きを迷わせていた。

だというのに、心は迷ったままだというのに、氷河の手は氷河の迷いを無視して、勝手に欲しいもののある場所へと真っすぐに伸びていく。

「本当に?」

瞬の頬と唇は氷河の指の感触に一瞬緊張し、その緊張は次の一瞬間で瞬の全身に及んだようだった。

氷河の指の触れている唇を僅かに動かして、瞬が、
「はい」
と、声にもなっていないような小さい音を発する。

こうなると、はっきり言って氷河の次の行動は条件反射のようなものだった。
切望するものがすぐそこにあって、相手にもそれを拒む気がないとなれば、氷河は瞬に引き寄せられるばかりだったのだ。


臆病な小動物をそっと抱き上げるようなキスをして、余情に浸りながら唇を離すと、氷河はまた大人の条件反射で、低く囁いた。
「約束だ」

氷河は、これで瞬はおとなしく引いてくれるだろうと踏んでいたのだが、彼が思っていたよりもはるかに、子供は懐疑的で貪欲だった。

涙ではないもののために潤んだ瞳で氷河を見上げた瞬は、微かに首を左右に振って、氷河に訴えてきたのである。

「いや。氷河、大人の人がすることして。そしたら信じるから」
――と。

それが、子供でないから言える言葉なのか、子供だからこそ言える言葉なのかを、氷河はもう考える気にはなれなかった。

子供だろうが大人だろうが、瞬が氷河を惹きつけ惑わす存在であることに変わりはなく、瞬の唇が紡ぎ出した言葉は、氷河にとっては逆らい難い誘惑だったのだ。





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