「氷河、また、ここに来てたの」 聖域を訪れるたび、必ず氷河は無人の天秤宮に足を運ぶ。 ここは、氷河が一度死に、そして再び生まれた場所なのだ。 今では遠い昔のことのように思える12宮での闘い。 穏やかな夕暮れの色に包まれた聖域の静けさ。 瞬によって蘇った氷河は、宝瓶宮でカミュを倒し、師を乗り越えることで、ある意味、彼の愛情に――間違っていたとはいえ、それはやはりカミュの愛情だったのだ――に応えることができた。 カミュの死という、大きな代償を払って。 しかし、やはり師を倒した宝瓶宮を見るのは辛く、師を思う時、氷河は必ず天秤宮へと足を運ぶのだった。 「氷河は自分のすべきことをしたと思うよ。カミュもそれはわかってくれたはずでしょう?」 「ああ」 命を懸けて闘い、その闘いに勝利して、師の誤りを正した。 自分の真情は、師にもわかってもらえたと思う。 理屈では、そうである。 氷河は、自分は、己れの為すべきことを為し、為し遂げたのだと思っていた。 その気持ちは、あの闘いから数年を経た今でも変わっていない。 しかし、その闘いで、その勝利で、師を生かすことができなかった事実が、いまだに彼に悔恨の情を運んでくるのだ。 瞬が自分にそうしてくれたようには、自分は師を生かすことができなかった――という悔恨を。 「師に勝っても、生き延びても、俺はおまえがいてくれなかったら、12宮戦の後は死んだも同然になっていたと思う」 「…………」 天秤宮からはるか離れた場所にある宝瓶宮を見やり、氷河は瞬を見ずに呟いた。 氷河のその言葉を否定する根拠は、瞬自身も持っていない。 『おまえがいてくれれば、俺は生きていける』 氷河にそう言われて愛を求められた時、瞬は氷河を拒めなかった。 『そのうちに、俺がいるからおまえも生きていられるんだと、おまえに思わせてやれるほどの男になる。必ずなる。だから、俺を受け入れてくれ』 氷河のその言葉が嬉しかった――のだと思う。 氷河にそう言ってもらえることが。 瞬にとって、氷河は、命を懸けて“産み直した”愛し子だった。 少々倒錯的なのかもしれない――と思わないでもなかったが、氷河に抱かれることは、気が違ってしまいそうなほどの快感を瞬にもたらした。 それは、母たる存在が自分の息子に組み敷かれる歓びに似ていたかもしれない。 だが、瞬には、自分と氷河が間違っているとは思えなかった。 母たる恋人のために、氷河は強くなろうとしている。 愛し子を抱きしめながら、愛し子に抱きしめられながら、彼の成長を確信できる日々。 母として、友として、仲間として、恋人として、これ以上の幸福はないだろうと、瞬は思っていた。 「瞬?」 「あ、何でもない。神殿の方に戻ろ。星矢たちが待っているから」 「ああ」 いつの日か、氷河には、瞬を必要としなくなるほどに強くなる時が訪れるに違いない。 その時に、母ではなく一個の人間として、彼に必要とされる存在でありたいと願う心が、瞬自身をも強く変えていくのだ。 あまりに美しすぎて、神にしか住むことが許されていないのではないかと思えるような夕暮れの聖域。 オレンジ色に染まる天秤宮に背を向け、氷河と瞬は、影を寄り添わせて、仲間たちの待つ場所へと歩き出した。 Fin.
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