そんなわけで、決闘騒ぎも一段落したある日。 いつまで経っても妹姫を異国の騎士に渡すことを渋っているログレスの王に苛立ちながら、キグナスはすることもなく、王宮の庭を散策していました。 その彼の前を、突然横切った小さな影。 どうやら、それは、城壁の隙間から王宮の庭に忍び込んできた子供のようでした。 辺りを窺って、城中に向かおうとしているその子供の襟首を、キグナスはひょいと掴みあげたのです。 「なんだ、おまえは。こそ泥か?」 「ち…違います!」 キグナスに捕えられた子供は、こそ泥にしては澄んだ目をした、良く見ると実に整った顔立ちの12、3歳の少年でした。 彼は、自分を捕まえている手から逃れようともがきながら、キグナスのこそ泥呼ばわりをきっぱりと否定しました。 「では、何者だ。なぜ、こんなところから城中に忍び込んできた」 「き…騎士見習いなんです。用を言いつかって城外へ出て帰ってきたんですが、正門にまわるのが面倒で、だから……」 「騎士見習い? 誰についてるんだ」 「あ…あの、ミロ殿の」 「ふん。あの男か」 キグナスは、自分に決闘を申し込んできた円卓の騎士たちの中でその名を冠した男の顔を思い出し、うんざりした気分になりました。 そして、この子供からキャメロットの王宮内の事情を聞き出そうと考えて、その綺麗な子供の襟首を掴んだまま、手入れの行き届いた芝生の上にどっかと腰をおろしたのです。 キグナスが円卓の騎士全員を打ち負かした粗暴な騎士だという噂でも聞いていたのでしょうか、その子供はひどく怯えているようでした。 が、キグナスは委細構いません。 「いったい、あの連中は何なんだ。円卓の騎士たちはみな、アンドロメダ姫を狙っていたのか」 「そ…そんなことはないと思いますが」 「なら何故」 「ア…アンドロメダ様はまだ14歳と幼いので、皆さん、心配なのでは……」 「人の妻になれぬ歳ではあるまい」 それはそうです。 世の中には、10歳の花嫁も5歳の花婿もざらにいます。国と国の取り決めで、ていのいい人質のように他国に嫁いだ姫や、その姫と形だけの婚姻契約を結んだ王子たちが。 「実際の歳より幼く見えて、滅多に外出もできないせいで世間を知らない方ですから、皆さんには子供に見えるのでしょう」 「おまえのように抜け出せばいいものを」 「そ…そうはいかないのでしょう。姫君ですし」 その子供――は、実は、騎士見習いの少年に身をやつしたアンドロメダ姫その人でした。 「あ…あの、僕、これで」 形ばかりの、そして、決して真の夫婦になることはない相手とわかっていても、アンドロメダ姫――シュン――の胸は、初めて間近にする自分の“夫”のせいで強く波打っていました。 それは、礼節を知らない粗暴な騎士と聞かされていたキグナスの青い瞳が、思いがけず、とても美しく澄んでいたせいだったかもしれません。 「おまえ、何をさっきから赤くなってるんだ」 「べ…別に」 「変な趣味でもあるのか? そういえば、あのミロとかいう男も怪しげだったな。おまえは奴の小姓でも兼ねているのか」 「そんなんじゃありませんっ! 僕はただ、あなたがとても綺麗だから…!」 「……それをおかしな趣味とは言わないのか?」 「言いません! 綺麗なものは綺麗なのっ !! 」 キグナスにそんな誤解をされてしまうのは、シュンはとても嫌でした。 形だけのこととはいえ、相手は自分の夫なのですから。 向きになって断言するシュンに、キグナスは苦笑しながら言いました。 「……おまえもとても綺麗だ」 「え?」 何故自分がそんな反応を示してしまうのか、シュンには全く合点がいきませんでした。ですが、シュンが異国の騎士の言葉のせいで、その頬を真っ赤に染めてしまったのだけは事実でした。 「ぼ……僕、もう戻らないと……」 「逃げるな」 「でも、ミロ殿に叱られてしまいます」 「叱らせないさ。俺はこの国の王の義理の弟だぞ。ただの騎士風情に文句は言わせない」 「…………」 シュンには不思議でなりませんでした。 ログレスの国の民でもなく、既にベンウィックの王だと名乗る彼が、どうしてログレスの王の妹姫を欲しがるのかが。 「あなたは、どうして、アンドロメダ姫と結婚したいの。“王の中の王”になりたいからなの。“王の中の王”って、どんなものだと思っているの」 「“王の中の王”……か。世界で最も繁栄しているログレスの王になることだと言われているらしいな。ま、俺はそういうことに興味はない。俺が欲しいのは、ログレスの王妹と結婚することで得られる、ログレスの後ろ盾だけだ」 「? ログレスの後ろ盾? そんなものが何故必要なの?」 望むものは王になることでも、領土でもなく、ログレスの後ろ盾。 何故キグナスがそんなものを必要とするのか、シュンには全くわかりませんでした。 「おまえは、今、俺の国がどんな状態なのか知らないようだな。ベンウィックはもともと力のある王のいない国だ。だから、野心やちょっとした武力を持った奴等が、自分が王になろうとして、あちこちで戦いが絶えず、ベンウィックはそれこそ、麻のように乱れきっている。本当のことを言うと、俺はベンウィックの王でもなんでもないんだ。ただ、自分の身を守るために仲間たちと戦っているうちに、それなりの領土と軍を持つことになったにすぎない。だからな、ログレスの王が俺たちの後ろについていると知ったら、俺たちに帰順する者が増えて、ベンウィック国内の争乱も収拾がつくかもしれないだろう? ベンウィックの争乱は、力のある支配者がいないせいなんだから」 強大な力を持つ兄王が治める平和な国で暮らしてきたシュンは、海を隔てた隣りの国がそんな状態にあることすら知りませんでした。 争いの絶えない国。 そんな国に住む民たちは、いつ誰に命を奪われることになるかもしれないと怯えながら、日々を過ごしているのでしょうか。 「で……でも、それなら、騎士と騎士の名誉にかけて、ログレスとの友好の約束を結べばいいだけでしょう? なにもアンドロメダ姫を后にしなくても……。ログレスは平和と礼節を尊ぶ国です」 「ふん。騎士道だの何だのと食えもしないものに血道をあげているログレスの王は、一介の成り上がり者にすぎない俺のことなど相手にもしないだろう。俺はてっとりばやくベンウィックから争いをなくしたいんだ。故国で、これ以上血を流したくない。俺は、国の争乱で、幼い頃に母を亡くした。俺の仲間たちはみんなそういう奴等ばかりだ。権力欲にとりつかれた無法な輩に、恋人や家族や友人を殺された奴等が集まって、ベンウィックを平和にすることで、運命に復讐しようと決意した奴ばかりなんだ」 「…………」 それはシュンの知らない世界。 シュンが想像したこともない悲惨でした。 「だが、あの広大な国から争いを一掃するには、俺や俺の仲間だけが強くてもどうにもならない。手に入れた者を“王の中の王”にするというログレスの姫を連れて帰れば、俺たちに帰順する者も出てくるだろう。そんな予言を信じない奴等も、ログレスの王が俺たちの後ろについているとなれば、敢えて逆らう気は起こすまい」 「…………」 キグナスの瞳に悲痛の色が湛えられているのを見て、シュンの胸もまた悲痛な思いに満たされました。 平和のうちに病で両親を亡くした時でさえ、シュンの嘆きは尋常なものではありませんでした。愛する母を、無法の力で殺されたキグナスの悲嘆はどれほどのものだったのでしょう。 「僕が……僕が、本当に姫だったら良かったのに。僕がベンウィックに行くことで、そんな悲しい人たちを救えるのなら、僕は喜んであなたと共にベンウィックに渡ったのに……」 「ははは……。おまえがアンドロメダ姫だったら、本当にお手軽だ。このままさらっていけばいい。そうしたら、もう誰も死なずに済む――」 自らの運命の悲惨を軽口に紛らすキグナスを見て、シュンはかえって悲しくなりました。 自然にその瞳から涙が零れ落ちます。 キグナスは、少なからず、シュンの涙に驚き、そして胸打たれたようでした。 ちょっとした偶然で出会ったばかりの小さな少年の涙ごと、シュンを抱きしめて、彼は言ったのです。 「おまえが泣くことはない。本物の姫はあの城の奥だ。俺の国の窮状も知らずのんびりと楽器でも演奏しているんだろうよ」 「…………」 キグナスの言葉に、シュンは深く俯いたのです。 それは当たらずとも遠からず。 つい今朝方まで、シュンは、そんな苦しみを苦しんでいる人たちの存在など知りもせず、もっと別の、しかし、命を失うような残酷のない悩みに優雅に浸っていたのです。 「ごめんなさい…っ!」 それ以上、キグナスの側にいることに耐えられなくなって、シュンは彼の腕を振りほどき、その場から走って逃げ出したのでした。 |