「でもね、氷河。断っておくけど、僕、初めてじゃないよ。それでもいい?」

氷河は、瞬のその言葉に瞳を見開いた。
その言葉が衝撃だったわけでも、不快だったわけでもない。
そんなことは氷河にはどうでもいいことだった。
むしろ、氷河は、これまでその件に関して一度も考えたことのなかった自分自身に驚いたのだったかもしれない。
そして、どうでもいいことのはずなのに、それなのに、瞬の後ろにいる見知らぬ人物に嫉妬を覚える自分に。

が、瞬は、言わずにいれば済むことを、無意味に言い出したわけではなかったのである。

「氷河のお母さんは、きっと氷河だけを見ていたよね。氷河の先生も、シベリアの地で氷河だけを見ていたんだと思う。でも、僕は違う。僕は氷河だけを見ていない。僕は、何もかもを愛して、それでも愛し足りなくて、そうして氷河を見つけたんだから」

つまり、瞬の言いたいことは、
「氷河が、マーマや先生みたいに、自分だけを見てくれることを僕に期待しているのなら、僕は応えられないよ」
――ということ。

もちろん、氷河の答えは、
「それでも……俺にはおまえが必要だ」
決まっていたのだけれど。


愛する者がいなければならないのである。
情熱を注ぎ込む相手が、氷河には必要だった。

氷河の、わかっていたはずの答えに、瞬は頷いた。
そして、微笑った。
「嘘だよ。僕が他の誰とそんなことするっていうの」

謹厳そのものの表情をしている氷河に、瞬が肩をすくめてみせる。

「ごめんなさい。本当にスタート位置についていいのかどうかを、僕、確かめたかったんだ。走り出したら、きっと僕と氷河は自分を止められないと思うから」

微笑んでそう告げる瞬の瞳は、しかし、氷河以上の情熱をたたえていた。

「あの、ね。ほんとに知らないから、あんまりひどいことしないでね」

潔いと一言で言ってしまうこともためらわれるほど一瞬で散る桜の花よりも儚げで、春の野にひっそりと小さい花を咲かせる白い菫よりも可憐な風情をしていながら、この花は、痛いほどの灼熱をその内に隠し持っているのだ。

「ひどいことはしない。ただ、ちょっと――」

そうでなくてはならない。
瞬がそういう存在でなければ、愛せなかった。
愛せなかったのだ。
氷河には。

「俺を驚かせてくれたお仕置きをするだけだ」

「氷河…!」

乱暴に肩をシーツの上に押しつけられた状態で、瞬は氷河の囁きを聞いた。


「わかっているんだろう。俺がどういう……」

――愛し方をするか。


「それが終わるのは、僕が死んだ時だけ、だね」

瞬の言葉に、氷河は刺すような微笑で頷いた。


“その人”しか見えない。
何もかもを、“その人”に注ぎ込む。
そうせずにはいられない。
――そういう愛し方。


瞬にはわかっていた。


愛する対象が必要な人間なのに、それを誰よりも欲している人間なのに、氷河は、幾度もその愛の対象を“死”に奪われてきた。
そのたび、氷河の愛情は行き場を失って逆流を繰り返し、愛する対象を失った喪失感の大きさに、彼はのたうちまわるほどの苦しみを味わってきたのだろう。

それらが全て、自分の中に奔流のように逆巻いて流れ込んでくるのだ。
しかも、肉親への情でも、師への敬愛でも、友情でもないものの形をとって。

何故氷河がすぐに新しい“対象”を作ろうとしなかったのかも、瞬にはわかっていた。
大抵の人間は、氷河のその激しさに臆するだろう。

大抵の人間は愛されたがっているのだ。
自分の望む程度の激しさで。
愛されたがっているような人間に、氷河の苛烈なほどの愛情が受け止められるわけがない。


だが、瞬の望むものは愛されることではなかった。
氷河と同じように、瞬の求めるものも“愛すること”だった。

それを、瞬は、氷河以上に求めてきた。
だが、自分の愛に耐えられるほどの強靭な心を持っている人間を、瞬はこれまで見付けられずにいたのだ。
兄でさえ―― 一見情熱の塊りのように見える兄でさえ――彼の求めることは弟を守るという愛情で、瞬の求めるものとは違っていた。

瞬は守られることなど、守られ愛されることなど、望んではいなかった。
兄の愛情が嬉しくないわけではなかったが、真に望むことは他にあった。

だが、巡り会えなくて。
自分の情熱に耐えられるほどの相手に――。

だから、瞬は、全てを愛することで紛らしてきたのだ。
愛したいという欲求を。


だが、それを――ずっと長い間欲していたものを――、瞬はついに手に入れる。





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