「絵本が――」

瞬は、ぼろぼろになった古い絵本を大切そうに見詰めながら、氷河に言った。

「絵本が買えなくてね。これ、公園で会った知らない子がくれた絵本なの。僕が眠る時に、一輝兄さんは、1冊だけあるこの絵本を何度も何度も読んで聞かせてくれたの。兄さんも僕も絵本の内容はすっかり暗記してるんだよ。でも、これしかないから、毎日この話なの……」


「…………」

古い絵本をなぞる瞬の白い指は、まるで懐かしい思い出を愛おしむように優しく穏やかだった。

「僕はその時には気付かなかった。兄さんが――僕と大して歳の違わない兄さんが、その時にはもうすっかり大人になっていたことに。僕はただの子供だった。でも、兄さんはそんな僕を守るために、子供でいることをやめてしまっていたの……」

そして、ひどく悲しげだった。


「子供を愛するって、とてもとても難しいことなんだと思うよ。子供は我儘で、身勝手で、自分が世界の中心にいて、自分が世界でいちばん偉い王様で、大人の理屈には従わない。そんな生き物を愛し慈しむには、尋常でない強さと優しさが要ると思う」

「氷河は、氷河のお母さんを好きでしょう? でも、氷河のお母さんがどんなに氷河を愛してくれていたのかを、多分、氷河はこれまで知らずにいたんだよ」

「人はね、普通は自分が親になって、それを知るんだと思う。自分がどんなに親に愛されていたか――。世の中にはね、夜泣きがうるさいって言って、子供の命を奪う親もいるんだよ。人間には、動物と違って、母性本能も父性本能もないんだって。人はね、人の親はね、本能じゃなく、努力と忍耐とそして愛情で子供を育てるんだ」

「本能なら美しいかもしれない。本能は、打算や見返りを期待することはないから。でも……でも、本能じゃないの。だから、子供を育てる親の心の中には、子供への手前勝手な期待も打算も醜い心もあるんだろうと思う。でも、人間の親って、うるさくて自分勝手で他人の都合を考えることもできない子供を――理屈では愛せないはずのものを愛するの。一生懸命努力して、だよ」

そんなことを、これまで氷河は一度も考えたことがなかった。

「純粋な本能で育てられるより、打算の混じった努力の方が価値があると思わない?」

遠い北の海に沈む母は、ただ母であるが故に、子のために命を捨てた母であるが故に、美しいひとだった。


「僕は、兄さんにそんなふうに育ててもらったの。氷河のお母さんも、そんなふうにして氷河を育ててくれたんだと思う。氷河のお母さんが氷河を救うために自分の命を捨てたのは、本能なんかじゃない。そうしようと思えば、自分が助かることもできたのに、氷河のお母さんは氷河を救うことの方を選んだんだ」

あの儚く哀しいばかりの女性が、そんな強さとそんな美しさを持っていたことに、

「僕たちはとても幸運で、そんなふうに愛されることを知ってるね」

何故、今まで思い至りもしなかったのだろう。


「だから、氷河は、子供を愛せるはずなんだ。そしてね、子供を愛せるって、誰をも愛せるってことなんだよ」

「氷河はいつも僕には優しくしてくれて、それで僕はとても幸せだけど、他の人にも優しくできる氷河を見ていられたら、僕はもっと幸せになれると思う。それは、氷河が強くて豊かな心を持っていることの証だから」


「氷河が、『しゅん』を好きだって言ってくれた時、僕はしゅんの中ですごく幸せだったよ」


本当に、何故。





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