「お目覚めか」
「……あなたはどなたです」

見慣れぬ部屋ではあるが、どこかで見たことのあるような造りの部屋。
それは、よくあるホテルの一室だった。

ベッドの脇にある椅子に、恐ろしく長い金髪の男性が腰掛けている。
眉間に如来像のような白毫があり、まるで仏陀を気取っているようにも見えたが、ツイードの背広に腰まである金色の長髪は、到底ブッディストには見えない。
本来ならミスマッチと言ってしまって構わない格好なのだろうが、面立ちの端正さとプロポーションの良さが、その男を見苦しさとは別の次元に置いていた。

「名乗る訳にはいかなくてね。なにしろ、私は誘拐犯なので」
「誘拐……? 僕をですか? 何のために?」
「目的は内緒」

寝台に上体を起こし、にこやかに笑う男の顔を見上げた瞬は、微かな頭痛を覚えた。
薬で眠らされていたことにまず間違いはないだろう。
兄と氷河へのプレゼントを選ぶのに夢中になっていた自分の側に、背の高い男が近寄ってきた――ところまでの記憶だけが、瞬の中には残っていた。

身に着けていたコートとジャケットがない。
意識を失っているうちに身体検査をされたのか、シャツブラウスのボタンも3つまでが外されている。

『目的は内緒』と言われても、その目的は情報か身代金しか考えられないではないか――と考え始めたところで、瞬は、自分の体に頭痛とは別の痛みがあることに気付いた。
左の上腕部に、針で刺されたような鋭痛がある。
その痛みが何を意味しているのかを、瞬はすぐに悟った。

「腕に埋め込まれていた発信機を取り除かせてもらったよ」
それは、仮にも誘拐犯ならそれくらいは当然の用心――というニュアンスを含んだ事後報告だった。だが、“普通の”営利誘拐を企てる者が、そんなところにまで頭が回るはずがない。

今、自分の目の前にいる男が、その柔和な面差しとは裏腹に、かなり危険な要素をもつ存在だということを瞬は認識した。

「財団内部に手引きする者がいるんですか。何故、僕の身体に発信機が埋め込まれていることをご存じなんです」
「内通者がいるかどうかはともかく、まず発信機の有無を心配するのは、グラード財団のラボの所長を誘拐する者として当たり前の心構えだろう。全身をチェックして探したんだよ。いい目の保養になった。とんでもないところにキスマークがあったな」
「……!」

服装の乱れの理由がわかって、瞬は頬に血をのぼらせた。
が、今は他人にキスマークを見られたことなどに気を病んでいる場合ではない。
「目的は、僕の持っている情報ですか? それとも、お金? 財団の方にはこのこと――」

ミスマッチ男は、肩をすくめて瞬の質問を遮った。
「君自身が目的だというパターンは考えないのかな? 一応、君を誘拐したことは、財団には知らせておいたが」
「…………」

世界経済に相当の影響力を持つグラード財団でそれなりのポストにある人間を誘拐したにしては、妙に緊張感に欠ける口調である。
この男の目的を明確に掴めない自分に、瞬は僅かばかりの苛立ちと不安を覚えた。

男は、しかし、瞬のそんな不安に気付いているのかいないのか、変わらず緊張感のない言葉を吐き続ける。
「遠目に見たことはこれまでにも幾度かあったんだが、近くで見ると一層可愛いね、君は。20歳過ぎてるんだって? とてもそうは見えない。せいぜい16、7歳だ」
「幼く見えるらしいですね。なにしろ世間知らずなものですから」
「だが、男は知っている……と」

誘拐犯は、寝台に上体を起こした瞬の顎を右手ですくいあげて、苦笑しながら言った。
「君を誘拐してくれと頼まれた時には面倒な話だと思ったんだが、役得があるのかな?」 
「放してください」
「可愛い顔して気丈だね。頼みの綱のボディガードくんはここにはいないんだよ。君は私の籠の中の無力な小鳥だ」
「捕まった時のために、余計な罪は背負わないでおいた方が利口です」
「いや、最大の目的は君自身なんだ、実は。私は以前から君に興味があってね」

相変わらず楽しそうな笑みを浮かべながら、彼はふいに瞬の肩を強い力でシーツに押しつけた。
長い金髪が――氷河のものではない金髪が――瞬の身体にまとわりつく。
その髪に全身を絡みとられるような錯覚にぞっとして、瞬は、自分にのしかかってくる男の胸を押し戻そうとした。

「坊やのその細腕では、私を押しのけるのは無理だ。無駄なことはやめなさ……ぐっ」
男の絶えない微笑に悪寒に似たものを感じ、その嫌悪感に耐え切れず、瞬は彼の腹部に拳をのめり込ませた。
氷河が側にいてくれるのなら覚える必要もないと思いつつ、氷河に教えてもらった、“身の守り方”。まさかそれが役に立つ時が来ようとは、瞬はこれまで考えたこともなかった。

「……とんだはねっかえりだ。素直な大人しい子と聞いていたのに」
かなり無理のある体勢で打ち込んだとはいえ、急所は外していない。
それなりに効いてはいるはずなのだが、彼はあまり苦しがる様子はみせなかった。
彼は僅かに片眉を歪め腹部を手で押さえただけで、その微笑を消すことはなかった。

「誰にです」
「知りたいか?」
「ええ」

瞬は本当はそんなことを聞きたくはなかった。

「毎晩君を抱いている男に。奴に頼まれたんだ、君を誘拐してくれと」

聞いてから、やはり聞くのではなかったと後悔した。
あまりにもふざけた戯言。
そんなジョークを、どうせ言うのなら、もっと大仰に笑いながら言ってほしいと思う。
妙に意味ありげな微笑を、瞬は、その男の顔から引き剥いでしまいたかった。

「ありえません。氷河はそんなことはしません。する必要がない」
「いつでも彼自身が誘拐できるからか? それなのに他の奴に頼むことで自分から疑いの目を逸らすことができるじゃないか」
「理屈ですね。氷河は僕のせいで、元いた組織を追われることになったわけですし」
「だが君は信じない」
「もちろんです」
「何故だ」
「氷河を信じています」

当然ではないか。
信じていない男に毎夜身を任せて、安らげるはずがない。
信じている相手だからこそ、欲望をすべて吐き出し終わった直後にも『この存在は自分に必要なものだ』と感じ、翌日もまたその懐に飛び込んでいけるのだ。

「さて、彼はそれほど価値のある男かな」
誘拐犯は、瞬の断言を皮肉な微笑で受けとめた。
氷河を信じているから、彼の微笑が気に障らないというものでもない。
瞬は、本当に彼の微笑が不快でならなかった。

「どういう意味です」
「彼の素行調査書を読んだんだがね。随分、女たらしだったようじゃないか。以前の組織にいた時は、ほとんどの仕事を女絡みでやり遂げている。今時、秘書や愛人を寝取られて、会社の機密を奪われるような間抜けな経営者や研究者もいるんだと感心してしまったぞ、私は。まあ、これでは、会社が潰れても同情する気にはなれないな。馬鹿なトップのいる会社を選んで入社した社員も考えが足りなかったんだろうし、会社の倒産で何千人の社員が路頭に迷おうが自業自得というところか」

「…………」
瞬は、長髪男の言葉に眉根を寄せた。
企業の機密を盗み出すことは立派な犯罪である。経路が経路なだけに被害者の方も表沙汰にしないことが多かっただろうから、確かに盗み出す側から見れば、それは有効な手段ではあっただろう。
しかし、瞬は、氷河にそんなことをしていてほしくはなかった。

氷河は、人間の評価ということに関して酷烈すぎ、人間を差別しすぎるのである。
大した相手ではないと判断した者に対しては、その人間にも“心”があるということすら気付いていないような振舞いを平気でする。

反面、自分に必要だと思った相手のためになら、彼は、簡単に自分を捨てることもできる。
瞬に出会った時の氷河がそうだった。
彼は、瞬の信頼に応えるために、大した躊躇もなく、自らの生活の糧と場を捨てた。

氷河が瞬を“必要なもの”と判断した第一の材料は、与えられ求められる信頼や愛情という要素に因るところが大きかったろうが、しかし、彼が、他の人間を不要と判断するのは、その才能の程度や力に因る。

人の持つ価値を判断するのに、そんな尺度をしか持たない氷河が、そんな尺度で判断するしかない生活を長く続けてきた氷河が、瞬は哀しかった。


「……こんなものを見せて、僕に氷河への不信を植えつけようとするのなら、あなたが氷河に頼まれて、僕を拉致したというのは嘘ですね」

そう反論できることだけが、瞬にとっては、長髪男の皮肉めいた言葉の中に見いだせる唯一の救いだった。

瞬の胸中の苦衷に気付いているのかいないのか、長髪男が、今度はまたがらりと話を変える。
「そう。実は、君の兄上に頼まれたんだ。君が最近ろくでもない男に引っかかって浮かれているから、少し頭を冷やしてやってくれと」

いったいこの男は何を言い出したのだろう? 
瞬には、この男の意図がまるで掴めなかった。
「……それも信じられません」
「何故」
「兄がそんなことをするはずがありません。兄は意見があったら、僕に直接言います。こんな回りくどいことする必要はないんです」
「兄も信じているというわけか」
「当然でしょう、兄は……」
「早くに両親を亡くして、苦労して幼い君を必死で育てあげ、その上傑出した企画力と行動力で、グラード財団に現在の地位を築いた立志伝中の人物……と」
「何でもご存じなんですね、あなたは」

瞬は腹立たしくてならなかった。
氷河のみならず、敬愛する兄までも、兄のこれまでの苦労までも、揶揄の対象にされて、平静でいられるわけがない。
かといって、ここで喚きたて始めるわけにもいかなかった瞬は、長髪男を無視する格好でぷいと横を向いた。

そういう態度を示されれば示されたで、長髪男がますます馬鹿げたことを言いだす。
「実はグラード財団の手先なんだ。総帥がね、『この世の中にワタシより可愛いオトコが存在するのは許せないわーっ』と我儘を言い出してね」

「ば…馬鹿げてます! 沙織さんはそんな低次元なことを考える人じゃありません。だいいち、彼女は、そんなことを考えてる暇もないほど多忙な身なんです」

長髪男の目的は、瞬の視線を自分の上に戻すことだったらしい。
目的を果たした長髪男は、満足そうに口元をほころばせた。

「君の周りには、君の信頼に足る人間しかいないのかな」
「信じられない人もいます」
「ほう」
「あなたのことですよ」

彼は、怒りと侮蔑の混じった瞬の言葉を聞くと、心底から楽しそうに、声をあげて笑った。





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