「読んだかい?」
「他にすることもありませんので」

縛りあげられて自由を奪われるようなこともなかったのだが、瞬はその部屋からの脱出を試みもしなかった。
誘拐の事実が兄や氷河の許に報告されているのなら、彼等は必ず自分を助け出しにきてくれる。
ならば、無分別な行動をして、誘拐犯を刺激したり昂奮させたりはしないでいた方が利口というものである。
面差しは柔和で、態度も穏便ではあったが、この誘拐犯が見かけ通りの軟弱な男でないことはわかりすぎるほどにわかっていた。

氷河に教えてもらった護身の術。
そのコツを教えてもらう時、瞬専任の教官は、『急所に的確に拳を打ち込めば、大の男でも1時間は痛みに呻いているはずだ』と言っていたのである。
それを食らっても涼しい顔をしているあたり、この男はかなりの手練れなのだ。
無駄な抵抗にエネルギーを浪費するのは、瞬の望むところではなかった。

そして、それ以上に、瞬は、彼のこの誘拐の目的が気になっていたのだ。
金でも情報でもない彼の目的――が。

「で、君の氷河クンへの信頼は?」
「……変わりません」
「おや、それは残念だ。では、今度はこちらを読んでもらおうか」

金髪の誘拐犯は、ライティングデスクの上に置かれた氷河の閲歴のファイルの上に、また別の一冊を重ね置いた。

「今度は何のファイルですか」
「君の兄上が、これまで君を育て守るためにしてきたこと」

「…………」

目的は、本当に何なのだろう。

「……兄上の方は、犯罪というのではないが、やること為すこと全てが実に冷厳で容赦がないね。君には優しくていい兄だったのだろうが」

「あ…あなたの目的は何です!」

氷河のかつての行状は、少しは彼自身から聞いてもいた。
聞いていた以上に――誘拐犯の呈示したファイルに書かれていることが全て事実だったとしたならば――氷河の諜報部員としての業績(?)は優秀で、こなしてきた仕事の件数も多かったが、それでも、それは瞬の想像の範囲内のことだった。
だが、兄のそれは――。

瞬の前で、兄は、いつも温厚で誠実な優しい兄だったのだ。
自分の兄としての一輝をしか、瞬は知らなかった――知らされていなかった。
知りたくはなかったのだ。

「君を人間不信にすることかな」
「それであなたに何の得があるというんです」
「綺麗な人間の心をいたぶるのが好きなんだ。そして、汚すのが」
少々皮肉がかってはいるが物柔らかな印象を抱いていたその男の柔和さに、瞬は初めて恐怖に似た感情を抱いた。

「君のように、信頼できる者を持っていたり、人から愛されているような人間がね、妬ましくて、見ていて苛立つんだよ」

一見した限りでは、温和な男に見えるのだ。

「全く、できるなら、その身体も汚してやりたいところだ。心よりずっと簡単に汚せる」
「そんなことをしても何の意味もありません。そんなことで僕は傷付かない」
「だが、君のボディガードくんや兄君は傷付くだろう」
「あなたは氷河や兄に恨みがあるの?」

それには彼は答えなかった。
代わりに、また、あの皮肉な微笑。

「……人間全般に、かな。私は醜いものが嫌いなんだよ。だから、醜悪なものをより醜悪に見せる美しいものも嫌いだ」

「…………」

目的は復讐、なのだろうか?

誘拐犯が部屋を出ていくと、瞬は彼の置いていった2冊のファイルに視線を戻した。
もし、このファイルの中からその部分だけが抜き取られていたならば検証は徒労になるが、この2冊のファイルに共通した企業の情報があったとしたら、あの男はその企業の関係者である可能性が出てくるのではないだろうか。

情報を抜き取っているとは思えなかった。
彼の目的が復讐だというのであれば、その恨みは他者に知らしめたいはずである。

瞬は、デスクの上に2冊のファイルを広げ、その内容の照合チェックを開始した。





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