「あなたは、東仏商事の関係者ですか?」
「さあ、どうだかね」

瞬が必死に2つのファイルを突き合わせて見付けだした某中堅企業――氷河に特許新案を奪われ、一輝の経営判断でグラード財団との取引を切られて、事実上倒産した企業――の名を聞いても、彼は顔色ひとつ変えなかった。
もしかしたらそれは演技だったのかもしれないし、瞬の当てが外れたのだったかもしれない。
瞬には、その判断はしきれなかった。

「そんなことより、そのファイルを読んでも、君はまだ兄たちを許せるのか? 彼等のせいで本当に路頭に迷うことになった者もいるんだぞ?」
「…………」

長髪男の言葉は、瞬はひどく辛いものだった。
氷河は自分が生きるために、兄は自分と弟の生活を守るために、それをしたのだと思う。
その時の彼等にとって、それは必要なことだったのだろう。
だが、彼等に他に選ぶ道はなかったのかと言えば、それはきっと存在したはずなのだ。

「……これは、氷河や兄が僕の身内だからというのじゃなく……僕は許すことしかできないの」

瞬は、自分の口にする言葉に血の味のようなものを感じていた。

「氷河や兄に被害を被った人たちは許せないかもしれない。そういう人たちが二人を憎むのは当然だとも思う。だって、憎めなかったら辛いもの。人が生きていくのに、憎しみがエネルギーになることがあることくらい、僕だって知ってます。でも、僕は――僕にできることは許すことだけなの……」

『許す』という行為は、時に強大な力を持つ故のことであったり、時に無力故のことであったりする。
今の瞬は、後者だった。
だから、瞬は辛かった。

「たとえば私が彼等に憎しみを抱いていて、その復讐のために君に危害を加えたらどうする?」

彼は、そう言いながら瞬の首に両手をまわし、まわした手にじわりと力を込めた。
だが、“無力”な今の瞬に、何ができただろう。
「僕にできるのは、兄たちがあなたにそんなことをさせてしまったことを悲しむことだけです」
「私を憎まないのか。私にそんなことをさせた兄たちを憎いとは思わないのか」
「憎みようがないの。だって僕は――そんなあなたが悲しくて、兄たちを愛しているから」
「私に殺されてもか」

「……はい」

答えて、瞬は目を閉じた。
それで、憎しみが一つこの世界から消えるのなら、兄と氷河を憎む人間の心が癒されるのなら、それが“無力”な自分にできるただ一つのことだと思った。


瞬の首に手をかけた男は、しばらく、そんな瞬をじっと見詰めていたらしい。
しかし、やがて彼はその手を瞬の首から外してしまった。

「やめた。馬鹿馬鹿しい! 泣き叫ぶ君に憎まれ罵倒され、それをいい気味だと笑い飛ばせてこそ復讐だろうが。これではまるで復讐者の面白味がない!」

「あ……」

自嘲するようなその声音に瞬がゆっくりと瞼を開けると、そこには詰まらなそうな、それでいてどこか嬉しそうな、誘拐犯の不思議な色の瞳があった。

「あの……」

それは到底恨みを晴らすことを諦めた復讐者の瞳とは思えなかった。
戸惑いを覚えながら、瞬は彼に『何故?』と問いかけようとしたのだが、ふいに室内に響いた携帯電話の着信音が、それを遮った。
瞬を拉致した男が、その電話に出ている様は、はっきりいって違和感に満ちていた。
似合わないこと甚だしい。

その怪しい光景を手短にその場から消し去ると、彼は顔に朗色を浮かべて、瞬に向き直った。

「ロビーに張りつかせておいた仲間からでね、どうやら君のボディガードくんがここを突き止めたらしい。さすがは元諜報部員だ、分析が早い上に機動性もある。私からのメッセージを受け取って2時間程しか経っていないはずなんだが、予想以上の素早さだ」

「氷河が…?」

安堵と喜色の混じった瞬の表情を横目に見ながら、彼は部屋のドアを開けた。
そこには、いつの間に来ていたのか、妙に目付きの鋭い一人の青年がいた。

「階数もほぼ察しているようです。まっすぐこちらに上がってきます」
「お相手してやれ。銃器は使うな。面倒なことになる。アゴラもすぐ上がってくるだろう。おまえたち二人ならまずやられることはあるまいが、旗色が悪くなったらすぐに投降しろ」

その青年に何やら物騒な指示を出して、金髪の誘拐犯は、ゆったりとした足取りで再び瞬の前にやってきた。

「じゃあ、坊や。面倒に巻き込まれるわけにはいかないので、私はここで退散するよ」
「仲間を見捨てるの? 氷河はあんな人くらいきっと……」
「なに、後で救い出すさ」
「あなたはいったい何のために……」

瞬の知りたいことはそれだけだった。
それを知りたいがために、逃亡のことなど一瞬たりとも考えずに、この部屋で大人しく救出を待っていたのだ。

だが、彼は、瞬にその訳を教えるつもりは全くないらしい。
「さよなら、坊や。楽しかったよ」

相変わらずにこやかな笑みを目許に浮かべ、彼は瞬の右頬にキスをすると、そのまま踵を返した。



それから程なくして、彼が立ち去ったドアから、彼とは別の金色の髪の持ち主が室内に飛び込んできた。
救出者の背後には、二人の男が苦しそうに呻きながら転がっていた。  





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