「貴様、本当に瞬に手を出してはいないだろうな」

その会員制のバーは、カウンター席の他にテーブル席も2、3あった。20人程度の客なら受け入れられるのだが、客の数が5人以上になると、入店を断ることになっている。
混んでいると、店の雰囲気が安っぽくなるという理由で、会員たちが決めた規約だった。

いずれにしても、月曜の午前3時。
客は一輝とその連れの他には誰もいなかった。
バーテンダーも、カウンターの二人に遠慮して店の奥に引っ込んでいる。

その連れは、長い金髪の掛かる肩をすくめて、薄笑いを浮かべた。
「この私が、薬や催眠術であの子の意識を失わせ、けしからん振舞いに及んだとでも言いたいのかな、キミは」

やりかねない男だということは知っていたのに、何故この男に話を持ちかけたのか。
一輝は自分で自分がよくわかっていなかった。

「あの金髪の坊やと違って、私はそんな命知らずなことはしない」

その言葉も疑わしい。
兄の許に戻ってきた瞬の笑顔は何事もなかったかのように明るかったが、人の記憶の操作など、この男には赤子の手をねじるよりも容易いことなのだ。
だからこそ、一歩間違えば犯罪になるような仕事も、この男には依頼できるのだが――。

「あの写真はやりすぎだ」
「隅々までじっくり観察させてもらったよ。実に綺麗な子だな。この私でさえ、一瞬欲情しかけた。抑制がきいたのは、一重に、あの子の兄貴殿の勘気を被るのが恐かったからだな」

ブランデー・グラスを持つ一輝の指先が青白くなる。手にしたグラスを、憤りに任せて割ってしまわないように、彼は、力を抑えるために力を込めていた。
逃げおおせた誘拐犯は、一輝の怒気などどこ吹く風で、一輝の手の中にある繊細なバカラのブランデーグラスを、強化ガラスのロックグラスに置き換えたい――などと、呑気なことを考えていた。あるいは、そのグラスがいつ割れてしまうのかを、楽しみにしていた。

「ふふん。おまえの可愛い弟君の、どこにキスマークが残っていたか、詳しく教えてやろうか」
気の毒なグラスをカウンターテーブルの上に置いた一輝の拳が、固く握りしめられる。

「おっと」
誘拐犯は、自分に弟の誘拐を依頼してきた男の拳を手の平で受け止めた――受け止めようとした。
その手に触れる前に、一輝の拳は動きを止めていたが。

「全く、諦めの悪い兄貴殿だな。あの子は、もう大人だぞ。頭もいいし、ちゃんと自分の判断力も持っている」
「その判断力で、あんな毛唐を選んだというのか」
「私も毛唐だ。その言い方はよしてくれ」

自分の判断と決定のせいで、路頭に迷う者が出ようが、経営難や倒産を苦に自殺を図る者があろうが眉ひとつ動かさない男の思いがけない感情の噴出が、その様を見られることが、彼は実に楽しかった。

「あのボディガードくんも、そう無能ではないぞ。信じられないほど短時間で、たった一枚の写真からあのホテルを割り出し、私の腕利きの部下をあっさりとのした。腕っぷしもいいし、顔や身体の出来も上出来の部類だろう。……ま、兄貴殿には、それも腹立ちの種のようだが」

「…………」
当然である。
人にとって、気に入らない人間の長所ほど不愉快なものはない。

「どうせおまえは、誰が弟の相手でも気に食わないんだろう。それなら、あの金髪の坊やは拾い物だぞ」

今ひとつ信の置けない胡散臭い男が、気に入らない男を褒めるのも、不愉快極まりない。

「何が拾い物だ。貴様ごときにあっさり瞬を攫われておいて。あんな間抜けなボディガードがあるか」

「拾い物だろう。何よりおまえの弟に本気で惚れている。ホテルを出てからしばらく、部屋に残しておいた隠しカメラで、あの金髪の坊やの様子を窺っていたんだが、見ものだったぞ、あの坊やがおまえの弟の無事な姿を見た時の顔は。まるで、半日ぶりに母親に巡り合った迷子の子供のようだった」

「…………」

用件は既に済んでいた。
それ以上不愉快な話を聞いていたくなかった一輝が、憮然とした表情のまま席を立つ。
「貴様よりはマシだと思って、しばらく我慢することにしよう」

それだけ言って店を出て行こうとする一輝に、わざと慌てた様子を装って、金髪の誘拐犯が声をかける。
「おい、おまえの奢りじゃなかったのか」
「今、誘拐の手間賃をたっぷり払ったろうが。間抜けなボディガードにあっさりやられた貴様の腕利きの部下たちは明日にでも解放してやる」

危険な頼み事をした相手への礼儀をわきまえない日本人に眉をしかめつつ、長髪の毛唐は浅く顎をしゃくった。

「頼む。ああ、それから、おまえの弟は、私を東仏商事の関係者かもしれないと疑っているはずだから、適当に話を捏造して納得させておくことだ」
「東仏商事? なんだそれは」
「架空の犯人と動機が必要でね。まさか、今度のことが、弟の男を追い払う理由欲しさに兄が企んだ誘拐劇だったのだと、本当のことは言えないだろう」

正鵠を得たその言葉に、一輝は、ますますその表情を苦いものに変えた。
ぎろりと下目使いに睨まれた誘拐犯が、大仰に肩をすくめる。
「失礼。目に入れても痛くないほど可愛い弟のボディガードの能力を確認するためだったな」

訂正された発言に頷くわけにもいかなかったのか、一輝はそれきり無言で店を出ていった。





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